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2016.08.02

『密会は雪の肌で』 #1 渡辺淳子 

  新緑の五月。かれこれ二時間以上も公園にいる。夜勤明けの私の身体は、今日も初夏の紫外線に思いっきりさらされた。

「母さん、母さん!ほら、見て見てー!」

  娘に呼ばれて顔を向けると、すべり台で遊んでいた優希が、うつぶせの姿勢ですべり降りていた。

「きゃー、優希!ダメ、危ない! 頭から行っちゃダメ!」

  私はベンチから立ち上がり、慌ててすべり台に向かってダッシュした。四歳になったばかりの優希は、最近ちょっと目を離すと、勇ましいやり方で遊んでいることが多い。

  地面に落ちる前に優希の身体は止まった。すべり面の平らな終盤が長かったからだ。思わず胸をなで下ろす。娘は悪びれもせず、バタ足をするような姿勢で笑っている。

「ゆーき。母さんがついてないときに、頭からすべってはいけませんって、何度言ったらわかるの?」
「ねえねえ、母さんは何歳?」

  優希をすべり台から起き上がらせると、嫌な質問がとんできた。

「優希ちゃん。すべり台では頭からすべらない。守ってくださいね」
「母さんは何歳?」

  自分の都合が悪くなると、優希は関係のない話を持ち出してごまかすようになった。

「んー? 三十三歳」

  子供に年齢を言うとき、私と同じ高齢出産組は通常十歳サバを読む。

「へえー。優希ちゃんは四歳」

  十以上の数字は数えられず、そもそも数の概念自体があやふやな優希は、大人ぶった質問をしてみたかっただけだ。わかってはいるが、正直に答えたくない母である。

「父さんと母さんが結婚して、優希が生まれたの?」

  また質問された。ついこの間、私と旦那のなれそめを話してやったのを憶えているらしい。

「そう。父さんが結婚してくれないと死ぬって言うから、結婚してあげたの」
「母さんは、父さんのお店のお客さん?」
「そう、お客さんだったの。父さんの作るお料理がおいしかったから、結婚したら毎日こんなお料理が食べられると思ったら、全然作ってくれなくて、がっかりしちゃった」
「全然作ってくれなくて、がっかりしちゃった」

  私の口マネをする、ぷっくりした優希の両頰を手でつまむと、娘は、にへーっと笑った。

  食べてしまいたいくらいにかわいい。老体にムチ打って働く私の心に大いにしみる。すぐにベッドに横になりたいところを、日ごろ一緒にいてやれない罪滅ぼしに、足を延ばして遊ばせに来た甲斐があったというものだ。

「では西谷優希さん。そろそろ帰りましょう」

  しびれた脚を踏ん張って、私は立ち上がった。あたりはまだ明るいが、防災無線用のスピーカーが夕方の五時を知らせたせいか、さっきまで遊んでいた子供たちは誰もいない。

「えー、もう帰るのー」

  優希は駄々をこねそうになったが、歩き出した私のあとをすぐに追いかけて来た。

「そう。もうおうちに帰る時間。母さん、これ以上公園にいたら、倒れちゃうからね」

  娘と手をつなぎながら、思わず自分の首筋をなでる。髪をアップにしていたせいか、太陽に照らされた首すじが少しほてっていた。




  六時過ぎに車でマンションに戻ると、瞬助がソファに寝転んでテレビを観ていた。

「あー、父さん」

  優希が瞬助に抱きついた。

「おー、優希ー。探してたんやぞー。どこ行ってたんやー」

  Tシャツに短パン姿の瞬助は、腹の上に乗った娘を抱きとめながら甘い声を出した。

「公園」

  そっけない返答をされても、「そうか、公園かー」と、瞬助はデレデレと娘にじゃれついている。

「今日は仕事、早く終わったんだ?」

  私は瞬助にたずねた。旦那がこんなに早く帰宅しているのは珍しい。

「うん。スイスイ作業が進んで、明るいうちに終わってもた」

  瞬助の髪は湿っている。帰宅後、ひとシャワーをすませたというところだろう。

「あー疲れた。今日は明けなのに、優希を広い方の公園に遊ばせに行ったからなあ」

  私はそう言って、両肩にかけていたトートバッグと革のバッグを、これ見よがしに瞬助の足元に置いた。トートバッグは優希のお道具やお昼寝用のブランケットや上履き(今日は土曜日)で埋まり、革のバッグは仕事の資料や、私が仮眠時に着た上下のスウェットなどで大きく膨らんでいる。

「何これ。じゃまや。どけて」

  ソファの上で足をのばせなくなり、瞬助はぶっきらぼうに言った。

「重いでしょう?これが昨日から今日の私なの。日勤やって、仮眠して、深夜して、主任会の仕事やって、保育園に行って、公園で遊んでやった。長い二日間をこの荷物が表してるわけよ」

「飛行機やぞー」と、瞬助は優希の身体を水平にして、両手両足で宙に高く支え上げた。はしゃぐ娘の声がリビングに響く。旦那は私の話をほとんど聞いていない。

「ほんで、今日の飯はなに?」

  案の定、瞬助はたずねてきた。

「私、昨日の朝から今まで、計四時間くらいしか寝てないんだけど」
「俺も今朝五時半に起きて仕事に行った。ほんで、なに食うの? 今晩」
「……私、コシャリが食べたいなあ」

  腹立ちをこらえて私は言った。こっちは深夜勤務が終わったあと、汗が気になりながらも、あまりの大儀さに顔しか洗っていないのだ。
 

 

渡辺淳子 Junko Watanabe
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

 

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