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2016.08.05

『密会は雪の肌で』 #2 渡辺淳子

「はあ? 何言うてんねん」

  瞬助はだるそうに言った。疑似飛行機体験が終わった優希は、両親の会話など気にもとめず、隣の和室に置いてあるおもちゃ箱へ突進して行く。

  「私、疲れると、トマト味がほしくなるんだよー」

  正攻法では陥落できないので、甘えた調子で言ってみた。大きな荷物をソファから降ろし、代わりに自分のお尻を空いたスペースにすべりこませる。

「お前、疲れてなくても、トマトばっかり食うてるやん」
「冷蔵庫にこの間作ったにんにく酢があるよ。トマト缶もひよこ豆の缶詰も、マカロニだってある。あ、フライドオニオンも買ってあったんだ」
「お前、俺に作らせるために準備万端やないか」
「違う、たまたまよ。今日は鶏肉のトマト煮にしようと思ってたんだけど、公園に長居しちゃったから時間がなくなったの。スーパーでお惣菜買ってこようと思ったけど、瞬ちゃん、怒ると思ってやめたんだよ」
「当たり前や。子供に味の濃い、変な添加物食わしたらあかん」

  言いながら瞬助は、乾いた素足を私の膝に載せた。私は旦那の足の裏を両手でゆっくりと指圧する。仕事中安全靴で守られている瞬助の足は、左右ともにタコができているところが三か所もある。

「ねえ、お願ーい」

  指圧を続けながら頼むと、瞬助は気持ちよさそうにうめいた。もうひと押しだ。

「パパッとできるじゃん、あれ。瞬ちゃん、お願い。ねえ、優希。父さんの作ったコシャリ、食べたいよねえ」

  私の呼びかけに、優希がキティちゃんのぬいぐるみを抱えてこちらに駆けて来た。

「父さーん。コシャリ、食べたい。コシャリ、作ってー。」
「ほらほら、父さん。優希もコシャリが食べたいってさ」

  娘が味方になってくれれば万全だ。私は指圧の手を止めた。

「優希ちゃん、コシャリ食べる」
「……そしたら、父さんの特製のコシャリ、優希のために作ったるか」

  無邪気な優希のおねだりに、やっと瞬助は観念した。

  海外を放浪したのち、無国籍料理店の厨房で働いていた瞬助は私より料理がうまい。なのに日々のごはんとなると、とたんに「女の仕事」扱いで手出しを渋る。結婚して六年。これでも家事をやってくれるようになったのだが。

「やったー。優希、今日はがっかりしなくてすんだねー」

  私がバンザイをすると、「がっかりしなくてすんだー」と、優希はとびはねた。

「なんや、ふたりとも。がっかりしたんは俺の方やで。今晩はゆっくりできると思たのに。もしかして母さんと結婚したのは間違いやったか。なあ、優希ちゃん?」

  瞬助はそうつぶやきながらソファから起き上がり、愛娘に向かって顔をしかめた。




  コシャリは、ごはんとパスタ、豆などを混ぜたごはんの上にトマトソースをかけたエジプトの郷土料理だ。現地ではもっとさらさらしたソースらしいが、瞬助が作るソースはとろりとして、ごはんやパスタにうまくからむ。

  私はいつものように、すりおろしにんにくの酢漬けをたっぷりとかけて食べた。適度な酸味とにんにくは疲労回復にもってこいなのだ。そこへ唐辛子オイルも加えたので、ついビールが進んでしまった。

  夕食後、瞬助はあらためて優希と入浴し、添い寝をしてくれた。この間に優希の歯みがきが入ると大いに助かるのだが、贅沢は言わなかった。

  家族が寝静まったあと、私はひとりでお風呂に入った。

  浴槽に深く身体を沈めると、疲れと酔いがじわじわとお湯の中に溶けていく。昨日から今日の出来事をとりとめもなく思い出す。そのまま眠りに落ちそうになるのを、すんでのところで踏みとどまり、風呂から上がった。

  洗面所で化粧水を肌にたたきこみながら、鏡に映った顔をまじまじと見つめた。両頰に細かなしみがいくつも浮かんでいる。公園遊びのときに七分袖から出ていた腕の先は、やはりうっすらと黒くなっている。

  三十九歳で子供を産んでから、身をかまう暇がなくなった。昔は背中の傷跡やほくろまで気にして、「見返り美人」よろしく、鏡の前でチェックしていたのに。子育てと仕事で充実した毎日だが、女を捨てている気がしないでもない。

  出産直前までは化粧品も、ランコムとエスティローダー、カネボウのイイとこ取りで使っていたが、最近は基礎もファンデも近所のドラッグストアで購入するようになった。理由は簡単、ゆっくりとデパートで吟味する暇がないからだ。

  今後優希にかかるだろう教育費を思うと、湯水のようにお金は使えない。結婚と同時に購入したマンションのローンも、五十七歳にならないと終わらない。

  横浜ふ頭の倉庫会社に勤務する瞬助の収入はまずまずだが、夜勤をこなす私の給料よりはやや劣る。医療保険や学資保険、車二台の維持費など、リーズナブルな化粧品を私に選ばせる理由は山ほどある。そこそこ知名度はあるけれど、地味めなこの化粧品は可もなく不可もなくといったものだ。

 

渡辺淳子 Junko Watanabe
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

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