美ST ONLINE 無料会員登録 あなたの「美生活」に役立つ情報お届けします

新着
2016.08.26

『密会は雪の肌で』 #5 渡辺淳子

「富田多香子さんの携帯ではないですか?」

  遠藤聡はかしこまって、念を押すように確認してきた。

「そうです。富田です」

  胸の高鳴りを感じながら、私もよそ行きの声で応じる。

「遠藤ですけど。憶えてる?」

「当たり前じゃないですか。すごい……久しぶり」

  気恥ずかしくて、わざと明るい声を出した。

「俺、忘れられちゃったのかと思ったよ」

「突然旧姓で呼ばれたから、びっくりしたのよ」

  相手の声が柔らかくなり、つられてこちらも軽い口調になった。

「そうか。結婚したんだね」

「うん、一応」

「子供は?」

「ひとり。ギリギリ三十代で。遠藤先生は? 子供はひとり?」

「いや……もうひとり、五年前に」

「じゃあ、お兄ちゃんと下の子はだいぶ離れてるね」

「携帯、番号整理しててさ。まだ使われてんのかなって、かけてみた」

  私の話を無視して、遠藤聡は言った。ああ、この人にはこういうところがあったと、思い出す。

「そうなんだ。ちゃんと使われてましたね」

「まだ同じ病院で働いてるの?」

「はい、働いてますよ。しつこく」

「実は俺、ひさしぶりにこっちに戻って来てさ」

「え、新潟から帰って来たの?」

  八年前、遠藤聡はうちの病院にはいなかったが、当時の上司と折り合いが悪くなり、地方にとばされたと聞いていた。

「いつ帰って来たの?」

「四月。今Y病院にいるんだ」

「えーそうなの? じゃあ、横浜に住んでるの?」

「うん。港北区」

「じゃ、うちとまあまあ近いじゃん」

  港北区は、私の住む緑区と手をつなぐように隣接している。

「やっぱり、こっちに戻って来たかったんだ」

「いや、俺はどっちでも。スキー三昧だったし。けど嫁さんがね。すごい喜んでるよ。実家も近いし、子供の学校も安心だって」

  私より三つ年上の遠藤聡は、声も口調も昔と変わっていない。

「やっぱ、長男くん、私立中学に転入したんだ」

「俺は公立でもよかったけど、嫁さんが入れたがったからさ」

  相変わらずなんでも人のせいにする遠藤聡に苦笑いし、インパネのデジタル時計に目をやった。時刻は八時七分を示している。

「ごめん。私まだ病院なんだ。もう帰らないといけないから」

「ああ、突然かけて悪かった。じゃあ、また」

「ううん、大丈夫。じゃ」

  通話を終えたあとも動悸が続いていた。昔の男と会話するのが、こんなに緊張することだとは思わなかった。

  落ち着きを取り戻すべく、私は震える手で包み紙を開いて、チョコレートをひとつ舌の上にのせた。ほろ苦い甘さがゆっくりと口の中に広がっていく。

  別れの言葉もないままに別れた人だった。あのころのことを今、遠藤聡はどう思っているのか。どうして今ごろになって、電話なんかかけてきたのだろう。

  口の中のチョコレートが消えてしまっても、しばらくの間、私は遠藤聡のことを考え続けた。


  瀟洒な門壁のチャイムを押すと、優希の声で「はーい」と応答があった。元気な様子にホッとする。やがて玄関のドアが開き、優希と智恵美がおもてに出て来た。

「母さーん」

  門扉を開けて敷地内を歩んでいた私は、玄関ポーチの途中で、駆け寄るわが娘を受け止めた。優希の口元からはカレーのにおいがする。

「優希ったら、夕飯ごちそうになったんだ?」

  たずねると、優希は「うん、ごちそうになった」と、はにかむように答え、私の首に腕をからませた。細い髪にもスパイスの香りをまとわりつかせている娘を抱き上げ、優希のうしろからついて来た智恵美に詫びた。

「ごめんね、遅くなって。おまけにごはんまで食べさせてもらって。事故カンファの改善案でもめて、なかなか終わんなくてさ」

  私は少し腰を折った。

「ごめんなさい。あんまり遅くなるのもよくないと思って、ごはん食べさせちゃったの」

  智恵美は少し悪びれながら、そう言った。

「ほんと、ありがとうね。今度必ず返す」

「優希ちゃんが食べる量なんて知れてるわ。気にしないで」

「いやいや、そうはいきませんって。大人ばっかりの家で、お子ちゃま用にわざわざ甘口カレーを作ってくれたんだと思うし」

「優希ちゃんの分を取り分けてから、ちゃんと大人用にしたから大丈夫よ」

  智恵美は悠然と微笑んだ。この落ち着きと品の良さが、医師の妻の座をゲットできた理由なのかなと頭をよぎる。

 

渡辺淳子 Junko Watanabe
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

セレSTORY ここで買える kokode.jp

totop
Mail
rss
美ST
美魔女
セレSTORY
STORY
光文社

Copyright© 2016 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.