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2016.09.02

『密会は雪の肌で』 #6 渡辺淳子

「実は病院出る前、懐かしい人から電話があってさ。それも遅れた原因」

  私は努めて明るく言った。

「誰?」

「んー、長くなるから、今度ゆっくり話す」

  期せずして、智恵美を焦らすことになってしまった。彼女をやっかんだわけではないが、暗いもやもやした気持ちが言わせた気もする。

「なあに? 次回のお楽しみ?」

「そう、楽しみにしてて。じゃあ、帰るね。優希、智恵美さんにごちそうさま、どうもありがとって」

「ごちそうさま。どうもありがとう」

  優希は素直に、私に言われた通りにあいさつをした。

「いいえ、どういたしまして。また来てね。おやすみなさい、優希ちゃん」

  いつの間にか智恵美の次女、七海が玄関から顔をのぞかせていた。「優希ちゃん、バイバーイ」と、手を振ってくれている。

「あ、七海ちゃんだ。七海ちゃんにも遊んでもらったの?」

  私も手を振り返し、優希を抱いて門に向かって歩きながらたずねた。

「うん。七海ちゃんとお絵かきした」

「剣道もおしえてもらった?」

「ううん。おしえてもらわなかった」

  優希は私の肩越しに手を振りながら答えた。そして、「智恵美さんの家、お部屋がいっぱいあるの」と、うらやましそうにつぶやいた。

***

  出勤途中で優希を保育園に送り届けたあと、もうすぐ病院というところで赤信号に引っかかった。今朝は優希が何度もぐずって支度が滞ったので、「どうしてこの世には信号があるんでしょうねえ」と、ひとりごとが口をつく。ここの信号は長いのだ。

  ため息とともに、信号の先に視線を流す。

  道路に沿ってなんの変哲もないビルが並んでいる。見慣れた光景の中に、ひときわ背の高い灰色のビルが見える。そのビルの奥には、六階建ての茶色いマンションがあるはずだ。

  かつて遠藤聡が住んでいたマンションが。

  地元の建築会社の施工だが、外装も内装もしっかりした造りだった。ちょっと変則な間取りの2LDKは、独身男がひとり暮らしをするには十分広かった。

  玄関からまっすぐのびる廊下は、洗面所および浴室と、八畳くらいの寝室に挟まれていた。廊下のつきあたりはLDで、LDに斜めにくっつくように居心地の良い洋室があった。

  居心地の良さは、出窓のせいでもあったのだろう。部屋の南側にある頑丈な出窓は、天井に届くくらいに大きくて、サッシを開閉するときはかなりの力が必要だった。

  とても明るい部屋だった。

  壁を背にして、オリーブグリーンの布張りのソファだけが置かれていた。

  そのソファの上で、よく私たちはひとつになった。

  ときに星空を眺めながら。

  ときに太陽の光を浴びて

  昼間は聡の額の汗に日光が反射した。私は自分の胸や腹の皮膚をやけに白く感じたものだ。その胸や腹に聡の汗の滴がいくつも落ち、乳白色の液体が何度もまかれた。

  してほしいことを、言わなくても私にしてくれた聡は、私のすることをいつも喜んでいた。

  この間の電話の最後に遠藤聡は「また」と言った。「また」とは、「また」電話をかけるということなのだろうか――。

  車のクラクションで我に返った。

  さっきまで目の前に停まっていた車が、道路の先の方で小さくなっていた。信号が青に変わっている。私は慌てて車を発進させ、左折して病院に向かった。



  夕方仕事を終えて更衣室に入ると、智恵美とかち合った。互いのロッカーは通路を挟んで斜め向かいで対している。

「あら、多香子。早いじゃない」

  智恵美が声をかけてきた。

「うん。今日は落ち着いてたから。余裕で保育園にお迎えに行けちゃう」

  私は機嫌よく応えた。日勤者全員がほぼ同時に仕事を終えたので、気がねなく上がれたからだ。

「バタバタしないでお迎えできると、そのあとの気分が違うよね」

「でも智恵美んちは、おばあちゃんがいたから、お迎えの時間はあまり気にしなくてもすんだでしょ?」

「でもなかったわよ。所詮は姑、毎日は頼みにくかったもの。やっぱり」

  私たちはおしゃべりしながら、蛍光灯の下で白衣から私服に着がえた。首筋や背中がべたついており、もう夏なのだと実感する。

「そっか。お迎えにも行けないなら、仕事なんてやめてしまいなさいと言われるって、がんばってたもんね」

「そうよ。意地になってたから、結構しんどかった。今と違って延長保育も短いし、二十四時間保育もなかったし」

  智恵美は苦笑しながらブラウスのボタンをとめている。私にはそう愚痴るが、たぶん自宅に子供の祖父母がいたのと、いなかったのとでは、苦労が違っただろうと想像する。

「そういえば、おばあちゃん、お元気?」

  私はたずねた。

「うん、おかげさまで。この間行ったときは元気だった。相変わらず、とぼけたことばっかり言うけどね」

  智恵美の姑は、自分の夫を亡くしたころから認知症の兆候が見られ始め、二年前に県内の老人ホームに入居した。

「智恵美は偉いねえ。そのお姑さんの世話もしたんだもんね」

「別に偉くないわよ。おばあちゃん、身体は元気だったから、火の元を気にするくらいだったし」

  智恵美はそう言ったあと、「そうだ。この間言ってた、懐かしい人って誰?」と、つけ足すようにたずねてきた。

 

渡辺淳子 Junko Watanabe
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

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