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2016.09.16

『密会は雪の肌で』 #8 渡辺淳子

「狭い世界だもん。そんなの簡単に耳に入っちゃうよ。十歳年下の元ミスF女なんでしょ?」

  大学を卒業して間もない女性と遠藤聡が結婚したと聞いたのは、彼がうちの病院での研修を終え、他の病院にうつって間もなくのことだった。

「……本当に罵倒されるんだよ」

「罵倒されるの?」

「だから気が休まらない。家でも、いっつも緊張してる」

  遠藤聡はため息まじりにそう言った。少し媚びのある口ぶりだ。

「……私だって、旦那に厳しく言うときあるよ。あの人、関西人でふんぞり返りたいタイプのくせに、抜けてるとこあるから」

  美人妻をかばうこともないのだが、そう応じた。

「でも、お前の言い方には愛があるじゃん」

「……そう?」

「うん。ある」

  ストレートな言葉に思わず胸がときめいた。お前と呼ばれることにも慣れていた。

  私たちは十四年のブランクが消えてしまったかのように会話している。お互い家庭を持つ身なのに、それはたいした問題ではないかのようだ。

  いや、実際問題ではないのだ。私たちはもう「男と女」ではないのだから。

  単なる友だちだとすれば、言われてうれしい言葉もそれ以上の意味を持たない。相手は自分を認めていると感じるだけで、それ以上の関係には発展しない。

「じゃあ、そろそろ買い物に行くから」

  私は気持ちを断ち切るように、きっぱりと告げた。

「……そうか。じゃあまた」

「じゃあね。ちゃんと仕事してよ、遠藤先生」

  遠藤聡はまだ話し足りなさそうだったが、私はスマホを耳から離して玄関へ向かった。

***

  病院の駐車場で車を発進させた途端に、ティッシュが切れていたことを思い出した。保育園に行く前に、いつものドラッグストアに立ち寄る。ティッシュと特売のトイレットペーパーも手にして、他のお買い得品を求めて店内を軽く物色した。

  私は化粧品のコーナーで、今使っているメーカーのところを通り越し、瑠璃色のボトルが並んだ一角で足を止めた。

  薬用雪肌精。

  初めてこの化粧水のボトルを目にしたときは、容器の色と和風の字体が斬新に感じられたものだ。

  雪肌精の試供品のふたをひねり、手のひらに化粧水を少し垂らす。薄い乳白色の水たまりを握りしめると、かさついた手に独特の芳香と潤いがひろがった。


  遠藤聡とつき合っているときに使っていた化粧品はクリニークだった。淡い色のボトルにつめられたアレルギーフリーと無香料をうたった外国製の化粧品は、当時所属していた病棟で流行っていた。

  遠藤聡と男女の仲になり、彼の部屋に出入りするようになっても、私は歯ブラシや下着などといった私物は、決して彼の部屋に置かなかった。病院では揶揄される、医者ねらいの女たちと一緒にされたくなかったからだ。

  私はそれが目的で看護師になったのではない。職業人としてのプライドもあったし、けじめをつけることが、自分の価値を高めるような気がした。

  会うときはほとんど彼の部屋だった。平日も帰宅が遅く、土日も何かにつけて病院へ行かねばならない研修医とのデートは、戸外で行われることはまれだった。

  彼の部屋で料理をして待ったり、掃除や洗濯をしてあげたり。地味な付き合い方でも私は満足していた。彼の下積み時代を支えているという自負があった。

  そんなある日、急に私は何かを変えてみたくなった。交際して二年あまり経った二十七歳の終わりごろだ。

  ふたりの間に、結婚のけの字もでないことに、不信感が募っていた。私と会わなかった休日に何をしていたのか、彼がはっきりと話してくれないことも見られ始めた。

  自分の足あとを彼の部屋に残した方がいいのではないか。少し「彼の中」に入りこんだ方がいいのではないか。彼を支えているのは私だ。私のものを置いてみよう。そう思った。

  クリニークを選択するのは面白くないので、他のものを探した。化粧品売り場でインパクトのあるボトルに目を奪われた私は、迷わずその化粧水を手に取った。

  何かと話題になってもいた雪肌精を購入し、私は遠藤聡の部屋の洗面所に黙って置いた。

  他には美容液も何も置かなかった。瑠璃色のボトルを置くだけで妙に満足した。実際あのころはまだ、美容液など必要なかった。

  遠藤聡とは、そのあとも一年くらいつき合った。どちらともなく連絡をとらなくなったので、いつが終わりだったのかはわからない。

  彼の父親は開業医で、彼のお兄さんも医師として東京で働いていた。

  静岡の小さな食品会社に勤める父と、郵便局の非常勤職員である母との間に生まれた私は、最後まで遠藤聡に遠慮することをやめられなかった。

 

渡辺淳子 Junko Watanabe
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

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