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2016.10.07

『密会は雪の肌で』 #11 渡辺淳子

***

  六月のある日勤の昼休み、職員食堂に行くと、智恵美がひとりで食事をとっていた。

「お疲れ」

  私は智恵美に声をかけ、冷やし中華の載ったトレーを彼女の向かいに置いて腰をおろした。午後二時を過ぎていたので食堂は空いていた。

「あら、多香子。遅いじゃない。こんな時間に」

  病棟スタッフとして働く私は交替で休憩するので、普段は十一時半から十三時半の間に昼食を取る。そのゴールデンタイムから外れていたので、智恵美は不思議に思ったのだろう。

「ひとり急変しちゃってね。受け持ちだったから離れられなかったの。ようやく落ち着いたから、人に任せてきた」

  答えながら、私は冷やし中華の麺をたぐった。ひんやりした醤油ダレに混じったお酢の香りに、さっきまでは皆無だった食欲が一気にわいた。

「お疲れさま。ぐったりね」

  ねぎらいの言葉をかけてくれた智恵美は、定食のサーモンフライを食べていた。

「疲れたわ、ほんと。新人に急変時の動き方をおしえながらだったから。おまけに準夜日勤だし。智恵美の方こそ珍しいじゃない。食堂で食べるなんて」

「……今朝はいろいろとあって、作ったお弁当を忘れてきちゃったのよ」

  智恵美はそう言い、せん切りキャベツを口に運んだ。

「へえ、なあに? せっかくのお弁当を忘れるくらいの出来事って」

「ちょっとね……」

  智恵美は言いよどんだが、すぐに続けた。

「主人と七海が朝からやりあっちゃってね。間に入るのに忙しくて」

「朝から親子げんかですか。それは大変だ」

  私も智恵美をねぎらった。優秀で要領のいい長女の春佳と違い、次女の七海は純朴でおっとりしている分、父親に何かと小言を言われるのだと、前々から聞いていた。

「なんでも介入しようとするからダメなのよね。あの人もそれがわからないから困っちゃう……。ま、私のことは置いといて。多香子はどうなの? 最近私、優希ちゃんのお迎えを頼まれないけど」

  智恵美は気をとり直すように、質問してきた。

「おかげさまでなんとかなってる。綱渡りだけどね」

  答えながら、私は細切りされたチャーシューを口に入れた。同時に昨夜のいざこざも思い出したが、疲れ過ぎて説明をする気にならなかった。

  昨夜優希は、鈴木さんの家で十一時近くまでを過ごした。八時に迎えに来るはずの瞬助が現れないと、準夜勤務中の私に鈴木さんから電話がかかってきて、私は瞬助に何度も電話をし、つながらないことに腹を立てながら業務をこなしたのだ。

  仕事のトラブルでお迎えが遅れた瞬助は、入浴をすませてすやすやと眠る優希を抱いて車で家に帰ったらしい。それを夜中の一時に聞かされた私は、せめて鈴木さんに連絡を入れろと激怒した。瞬助は電波状態の悪い場所から離れられなかったと言い訳し、ちゃんと金は払うからいいだろうと開きなおったので、夫婦げんかになったのだった。

「何かあったら、遠慮なく言ってよね。ワーキングママの苦労は私もわかってるから」

「ありがと。でも私も甘えすぎてたとこあるから。あまり智恵美に頼らないで、がんばりたいって気持ちもあってね」

  なんだか面倒になり、適当に応えた。

「そういう姿勢がダメなのよ。自分で自分を追い詰めることになるの。私は経験済みよ。遠慮しないで、どんどん頼ってちょうだい」

  智恵美は強く主張した。確かにそうだが、同世代の上から目線な言動に、私は少しムッとしてしまった。

「はいはい。いざってときはお願いしますよ、先輩」

  あなたは家に暇な姑がいたでしょう。子育て中は若くて体力もあったし、今の私のように職場での役割もなかったじゃない。

  心の中で毒づくあまり、ちょっとふてくされた言い方になった。

「いざ、のレベルを是非下げてね」

  親切心を邪険にされたように感じたのかもしれない。まるで部下に命令するときのような口調で智恵美は言った。

  そのあとはふたりとも黙々と食事をした。昨日と今日とですり減っていた私の神経は、この場を取り繕う言葉を運んできてはくれなかった。

「多香子、遠藤先生から電話、まだあるの?」

  ふいに智恵美が質問してきた。

「え? ああ、まあ、たまーにね」

  あまりに突然だったので、私はごまかすことができなかった。

「多香子、最近きれいになったよね」

  智恵美はちらりと私を見た。ギクリとする。

「……どういう意味よ」

「わかってると思うけど、家庭を壊すようなことはしないでね」

「やだ、なに。そんなことするわけないでしょ」

  言下に否定した私に、智恵美はまだ疑うような視線をくれ、「遠藤先生って、ちょっとズルい人よ。多香子は知らなかったかもしれないけど」と、つぶやいた。頭に血が昇る。

「知ってたよ、そんなこと」

  私はぶっきらぼうに言った。無性に腹が立った。当時の不安が今さらながらよみがえったからだ。

  聡が私を相手にしなくなったらどうしよう。今度部屋に行ったとき、雪肌精が洗面所から消えていたらどうしよう。

  他の女の影が見えるのはがまんする。最後に私を選んでくれればいい。けれどその願いは、そのへんの医者ねらいの女たちの願いと、何もかわらないのだ。

  同い年の、しかも医師の妻になった智恵美に当時のあせりを見抜かれていた気がして、私はこの場からすぐに離れたくなった。

「ごちそうさまでした。お先に」

  のび始めた中華麺を飲みこむようにして食事を終え、私は先に立ち上がった。

「……もっとよく噛んだ方がいいわよ」

  智恵美のまるで母親のような小言が、余計に私の気持ちを逆なでした。



 




渡辺淳子 Junko Watanabe

滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

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