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2016.10.14

『密会は雪の肌で』 #12 渡辺淳子

聡からは週に一回くらいの割合で電話がかかってきた。仕事のあとに着信履歴が残されているのを見ると、話せなくとも気を良くした。電話に出たら出たで、とりとめもない会話や思い出話を楽しんだ。

「あの店、まだあるの?」

  聡はたずねた。

「店って?」

「じらふ」

「……ある、と思う」

  じらふは、当時私たちが行っていた、カジュアルなイタリアンレストランだ。

  住宅街にポツンと佇み、知らなければ絶対に行かないだろうその店は、昔私が住んでいたマンションから歩いて数分のところにあった。意外と味は良く、夜になるとそれなりに客が入っていた。閉店時間は夜の十時だったが、近所の暇な人たちがだらだらと飲んでいるときは、十一時、場合によっては十二時ころまで店を開けていたので、私たちは結構世話になった。

「あのおやじ、まだやってんの?」

「やってんのかなあ。もういい年だろうけどね。店自体はランチもやってたよ」

「行ったの?」

「去年たまたま店の前を通りかかったとき、開いてるのを見た。入んなかったけど」

「まだつぶれていないとは感心だな」

「いろいろ企業努力してるんじゃない?」

「企業って店じゃないけどな。偉いじゃん。あそこのピッツァ・マルゲリータ、うまかった」

「うん。焼き釜の火を落としたって、頼めないことの方が多かったけどね」

「俺、じらふの渡り蟹のスパゲティ、食いたい」

「トマトクリームね。聡、あれ好きだったよねえ」

「お前も好きだったくせに、夜中にハイカロリーだって、あっさりしたもんばっかり頼んでた」

「だって、ペンネアラビアータも好きだったんだもん」

「あーほんとに食いたくなってきた。もう頭ん中全部、イタ飯で占められてる」

「聡、イタ飯は古いよ。ほとんど死語」

「ねえ、じらふ、行きたくない?」

  一瞬、時が止まった気がした。

「お前も行きたいだろ?  ワイン飲みながら、パスタ食ってさ」

  なおも聡は言った。聡の息づかいが電話の向こうから感じられる。

  ゆっくりと、確かに繰り返す、彼の呼吸。

「もっと気のきいた店が他にあるでしょ」

「子供あずけるとこ探すの、大変なんだよねえ」

「私は旦那もちなんだから、行くわけないじゃん」

  どのセリフで断るか。なるべく自然に。流れるように。

  さらりとかわす。オトナの女らしく。もう十四年前とは違うのだから。

  考えに考えて、私は答えた。

「いいよ。行こうか、一緒に」

  会えば、何かを取り戻せそうな気がした。実際、聡からの電話以降、念入りにスキンケアをしているせいか、肌の調子がとてもいい。気持ちにもどこか張りがある。智恵美の指摘に憮然としてしまったのは、疲れていたからだけでなく、自覚があったからだろう。

  旦那には黙っていればわからない。子育てしながら、夜勤までしているのだ。あの人より稼いでもいる。日々の生活にちょっとスパイスを利かせても罰はあたるまい。それどころかスパイスできれいになれば、旦那孝行にさえなるのだ。

「お前、夜はいつ出られるの?」

  聡は急に声をひそめた。こちらも合わせて声のトーンを下げる。いかにも密会の相談だった。

  ぼそぼそと予定をすり合わせ、七月のある土曜の夜に、私たちはじらふで会う約束をした。

***

「ねえねえ、母さん。公園行こうよー」

  水曜の夜、夕飯を食べ終えた優希が、まだダイニングテーブルに着いている私に抱きついてきた。

「こんな時間に?  ダメダメ。もう真っ暗。公園遊びはできません」

「だって、公園行きたいー。ブランコしたいー」

  つまらなそうな娘の顔に、母としての良心が痛む。最近は紫外線を避けるため、ほとんど外で遊んでやっていない。

「また今度ね。母さんのお休みの日。昼間、お外に出られる日に行こうねー」

  言い訳をしながら、私は豚肉の天ぷらを口に運んだ。おいしいはずの肉の脂と衣の油がのどにまとわりついて、なかなか飲みこめない。

「やだやだ、公園行くー」

  優希はしばらく駄々をこね、私を困らせたあとに、父親の膝に抱きついた。

「ねえねえ、父さん。公園行こう」

「おーそうやなー、今は真っ暗やし日曜日の明るいときに行こう、な?」

  母子を無視して、ひとり優雅に食事をしていた瞬助は、グラスのビールをちびりと飲み、優希の頭をやさしくなでた。幸いにも旦那は女房の変化に気づいていないようである。

「ほら、優希、トトロを観ようよ。ね?  さあ、となりのトトロだよ。テレビ観ようねー」

  私はダイニングの椅子から離れ、DVDプレイヤーを操作して、テレビ画面に優希のお気に入りのアニメを映した。素早くトトロの登場場面までDVDを早送りする。

  優希の興味は間もなくアニメに移った。姑息な手段に引っかかり、テレビの前に陣取った娘にホッとしながら、すました顔でいる瞬助に私は切り出した。

「今度の土曜日、送別会があるんだけど、行っていいかなあ?」

「こんな時期に送別会?  珍しなあ」

  コシャリを食べながら、瞬助は素直な感想を述べる。

「どう?  そのコシャリ。私にしちゃ、うまくできたと思わない?」

「……まあまあやな。クミンはもっと減らした方が、バランスがいいと思うけど」

「スパイス、ついたくさん入れちゃうんだよね、私」

  気合を入れて作った料理を認められたことに安心し、話を続けた。

「今の若い子はなかなか続かないのよ。嫌になると、すぐ辞めちゃうから」

「そんなヤツの送別会なんかしてやることないやん」

「あ、まあ、そうなんだけど、全くなしってのも、ねえ。一年ちょっとだけど、それなりにやってくれたし。有志だけでも、集まろうってことになって」

  きゅうりにもろみ味噌をつけながら、私は説明した。言いながら、考えながらだったので、もろみ味噌がなかなかきゅうりにのらなかった。

「ふーん。そやから土曜日にやるの?」

「そうなのよ」

  冷蔵庫から出したばかりのビールを瞬助のグラスに注ぎながら、私は答えた。

「ええよ。でも七時までに優希を迎えに行けるかなあ」

「あっ、それは心配しないで。お迎えは鈴木さんに頼んであるから。遅くなったら、ごはんも食べさせてくれるように言ってあるし。だから瞬ちゃんは残業になっても大丈夫」

「ふーん。ほんで、お前は何時ごろ帰って来る?」

  ビールをあおりながら、瞬助は核心をついてきた。

 

渡辺淳子 Junko Watanabe
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務。若い男女の結婚観を描いた「父と私と結婚と」で、2009年第3回小説宝石新人賞を受賞。著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』『東京近江寮食堂』がある。

 

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