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2016.12.02

『バージンチーク』 #3 大西智子

  意思のない人形のような汐里は、まだ一度も言葉を発していない。悪い方向に考えが先行し、罪悪感のようなものまで湧いてくる。五年前に断ち切ったはずの肉親を頼らなければならないほど切羽詰まった状況にありながら、居丈高な態度を崩さない姉にかすかな憐れみを感じる。

  ずっと姉のほうが上等な人間だと思っていた。汐里の擦り切れたタイツを見る。対照的に姉はきれいに着飾って化粧も施している。ツイッターにはランチをしたりネイルサロンに行ったりアロマセラピストの講習を受けに行ったりしている様子が写真つきでアップされていた。

  しかし一枚皮をめくれば、姉も毛玉だらけのニットを着て擦り切れたタイツを穿いているのではないだろうか。そう想像すると腹に穴が空いて冷たい風が通る。

「春休みの間だけでいいのね」

  私がそう言うと、姉は唇をきれいに湾曲させ、さも当然というようにうなずいた。姉に逆らえないことは、子どもの時分から刷りこまれている。姉の要望は嫌でも受け入れるしかなかった。しかし今回はちがう。笑っている姉の顔が歪んでいる。こんな気持ちになったのは初めてだ。

「よかったね、汐里。ほら、ありがとうは」

  汐里は私の右耳でも見るような感じで微妙に視線を外し、ありがとう、と呟いてひどくいびつな笑みを浮かべた。その顔に引っかかるものがある。思いきり笑うのを我慢しているような、笑っている途中で叱られたような、中途半端で不安定な笑みだった。見てはいけないものを見た気がして、私は目をそらす。この子はいつからこんな、卑屈な笑い方をするようになってしまったのだろう。

  三歳までの汐里は、どちらかといえばわがままで、自由奔放な子どもだった。小児科の待合や外食先で大声を上げて走り回り、いくら注意してもじっとしなかった。利かん気が強く、姉にきつく叱られても、目に涙を溜め、ママ嫌い、あっちいって、と言い返していた。

  一緒に行ったファミレスのドリンクバーで、ぶどうジュースのボタンを押そうと懸命につま先立ちしていた汐里を見かね、うしろからボタンを押してやったら、自分でできたのに、とぷっと頰を膨らませて拗ねたこともあった。

  今の汐里は、実際の年齢より遥かに大人びて見える。親が未熟だと、子どもの成熟が早いということが、ままある。親の足りない部分を自分で補おうとするのだ。汐里は文句ひとつ言わず、与えられた境遇を静かに飲みこんでいるように見えた。



  汐里と二人っきりになると、リビングが世界のすべてに思えるほど荒涼としているように感じられた。姉はわずかばかりの食費と着替えを置いて、別れを惜しむでもなく帰っていった。まるで自分まで姉に置き去りにされたようだ。

  新しくもないが古くもない1LDKのマンションは、一人で暮らすには十分だった。リビングは教室として使っているため見栄え重視だが、もうひとつの部屋には誰も立ち入ることがないので、安価な家具と雑多なものを置き、寝室兼作業部屋として使っている。

  汐里をその部屋に案内すると、うわあ、と小さな感嘆を漏らした。そのとき初めて汐里の声を聞いた気がした。棚一面に収納した花材を見て、お花畑みたいだと、実に子どもらしい感想を述べた。

  汐里をリビングに戻し、今日中にやらなきゃいけないことがあるから、悪いんだけど一人で遊んでてね、と言い置いて作業部屋にこもる。明日のレッスンの準備をしなければならないし、新しいデザインも考えたかった。することはたくさんあったはずなのに、どうにも汐里が気にかかって集中できず、それでも二時間ほど粘って部屋を出た。

  ごめんね、ほっといて、と謝ったが汐里は大して気にも留めず、持ってきていたアニメのDVDを観ている。画面の中では二頭身のキャラクターが、早口でなにごとかをまくし立てていた。フローリングの上にはゲーム機が転がっている。出してあったジュースとお菓子にはほとんど手をつけていなかった。

  今日の夕飯どうしようか、と尋ねても、汐里はテレビから目を離さず、恥ずかしそうに身をくねらせるだけだった。まだ六時過ぎだが、いつもより早く疲れと空腹を感じている。

  なにか食べに行こうか、ピザでもとろうか、なんか買ってこようか、チャーハンとかならすぐ作れるけど、と提案をしても、汐里の口から明確な答えは出てこず、しきりに首をかしげている。痺れを切らせた私は、近所のファミレスに連れて行くことに決めた。

  テーブル席に向かい合って座る。店内は大して混み合っていなかった。好きなもの頼んでいいよ、とメニューを手渡すと、汐里はじっくり端から端まで眺めた。十分に吟味してからミニうどんを指差す。それだけ? と聞くと無言でうなずいた。

  私はミックスグリルとビールを注文する。汐里にはミニうどんにドリンクバーをつけた。さっそくドリンクバーに立った汐里は、迷いなくぶどうジュースを選んでいる。相変わらず好きなんだなと思うとほっとする。さすがにもう、手を貸してあげなくても背は届く。

  大きくなった汐里の隣で、四、五歳ぐらいの男の子がカップを台に置き、あのときの汐里みたいに背伸びをしていた。めいっぱい手を伸ばしても、指先がわずかに届かない。男の子は、ママー、と大声で叫んだが、肝心の母親はママ友らしき数名とおしゃべりに夢中でまったく気づいていなかった。

  汐里は男の子の背後からオレンジジュースのボタンを押してあげた。カップを取って手渡すと、男の子は礼も言わずに受け取った。危なげな足取りで席へと戻る。母親が男の子に、あれー、自分で入れられたんだ、すごいねー、などとのんきに褒めている。汐里はなんともない表情で、ぶどうジュースを手に戻ってきた。

大西智子 Tomoko Onishi
1979年大阪府生まれ。 京都光華女子大学卒業。 2008年に『ベースボール・トレーニング』で第26回大阪女性文芸賞を受賞。 2014年に収録作の『カプセルフィッシュ』が第8回小説宝石新人賞・優秀作に選ばれ作家デビュー。

 

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