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2017.01.20

『バージンチーク』 #9 大西智子

「ちょっと、大丈夫?」

  ティッシュを指に巻き、止血する。ぎゅっと力をこめ、汐里の指を握った。白くなった指先に、ほんのわずかな赤い点が見えた。その上から絆創膏を巻く。

「しいちゃん、痛いなら痛いって言いなよ」

  叱られたと思ったのか、汐里は少し身を縮めた。固く固く、汐里の体が貝のように閉じていく。私はフォローしようと口を開きかけ、でもなにも言えなかった。どうやってこじ開ければいいのかわからないと思うと、胸がしんとなった。汐里は絆創膏を巻いた指をじっと見ていたが、その実なにも見えてはいないようだった。痛みに対して文句も言わず、憤らず、騒ぎ立てず、そうやって今まで心をすり減らしてきたのだろうか。

「ごめんね、さっきのおばさんたち、うるさかったでしょ」

  気まずさをごまかすために言う。汐里は、うん、と静かに返事をした。

「いつもあんな感じなんだ。人の領域にずけずけ踏みこんで、素知らぬ顔してる

  言ってから、あれ、と思った。

「鈍感なんだよ。自分に対しても、人に対しても」

  だが舌は止まらない。それどころか、斜面を滑り始めた言葉は勢いを増す。周囲にばら蒔かれていた苛立ちが潤滑油になる。

「ほんと、いい加減にしてほしいんだ。どうしてあんなに人のことに興味が持てんだろ。自分の生活に刺激がないからなんだろうね。だいたい暇なのよ。時間がありあまってんの。だからうちの教室にも来てんだろうけど。じゃなきゃこんなとこ来ないよね。はは。これって自虐」

  愚痴が喉を伝ってするすると吐き出される。どうして子ども相手にこんな話をしているのか。頭の一部は冷めていて、みっともない、と思うのに、冷静になれない。髪の先までちりちりと、不満でいっぱいになった心に焼かれる。

「自分の価値観を押しつけないでほしいんだよね。女は結婚して子ども産むのが当たり前なんて、そんなの今どき……」

「いじめられたの?」

  汐里が労わるようにこちらを見上げる。え、と自分でも意外なほど弱々しい声が漏れた。あのおばさんたちにいじめられたの? 汐里がかすれた声でもう一度問う。

「……どうしてそう思うの?」

  膝が震える心地がした。不意に目の奥が熱くなって驚いた。体がばらばらになる。湧き上がるような憐れみが、汐里の表情の端々に滲んでいった。

「だって、なんか、普通じゃなかったから」

「普通じゃないって?」

「おばさんたちが話してるの聞いてたとき、嫌な、顔してた」

「そりゃ、気分はよくないけど、いじめられてるってのとはちがう」

「でも」

「でも?」

  言いよどむ汐里をうながすと、汐里は砕けていた言葉を繋ぎ合わせるみたいにして言った。

「泣きそうだった」

  ぐっと言葉が腹に差しこまれる。そんなんじゃない、と我知らず金切り声が上がった。汐里が驚く。はっと息を飲んだ。今の発言をもう一度、喉に戻してなかったことにしたかった。ごめん、と小さく謝る。汐里は目を見開いていたが、やがてそっとうなずいた。表情に宿す憐れみの色を、さらに深くしたように見えた。

「ごめんね。びっくりさせて」

「ううん、平気。慣れてるから」

  私はまた体がばらばらになるような感覚を覚える。

「お母さんも、よく怒るし、よく泣く。だから、別に、大丈夫。お母さんは、泣いたあと、ちょっとだけやさしくなるし」

  平坦な口調でそう言って、汐里は再びテーブルを拭き始めた。絆創膏を巻いた手を、単調に動かす。そこはもうぴかぴかに光っているのに、見えない汚れを執拗に拭い続ける。たった八歳の女の子に気を遣わせてしまった。私の顔が羞恥で熱くなる。張りつめた汐里の横顔を見て、この子も泣くことがあるのだろうかと考えた。汐里が感情を露わにして泣く姿を想像できないことが、切ない。

  痛いのに痛いと言えないのは、私も同じだ。自分の心を茶化して、ごまかして、こんなことはなんでもないと言い聞かせてきたのは、私もおんなじなんだと、汐里に叫びたかった。

  掃除が終わってから昼食を食べた。午後にもレッスンがある。ゲームをしていた汐里は、いつの間にかソファでうたた寝をしていた。私がインドアなせいで、汐里もずっと家にこもりっきりだ。どこかへ連れていってやらねばと思うが、どうにも腰が重い。来週行く彼の個展ぐらいしか、外出の予定はない。

  結局彼の個展には、汐里も一緒に連れていくことにした。大人しい子だから大丈夫だろう。彼にもそう伝えてある。男が苦手だというのが気がかりだったので、一応姉にも告げておこうと電話をかけたが、何度コールを鳴らしても出なかった。少し顔を合わせる程度だし、彼は穏やかな紳士だから問題ないとは思う。

  姉との連絡はだいたい一方通行だ。いなくなってからも電話やメールをしてみたが、すでにその番号とアドレスは使われていなかった。それが昨日、突然電話がかかってきたのだ。姉の第一声は、とても五年ぶりとは思えないぐらいくだけたものだった。ねえ、ちょっと会いたいんだけどさ、今日時間ある? と断られることをまるで想定していないように聞いてきて、そして姉の思惑通り、私は断ることができなかった。くどいぐらいに、両親にはこのことは伏せておいてほしい、あまり詮索もしてくれるな、という旨のことを繰り返していた。

大西智子 Tomoko Onishi
1979年大阪府生まれ。 京都光華女子大学卒業。 2008年に『ベースボール・トレーニング』で第26回大阪女性文芸賞を受賞。 2014年に収録作の『カプセルフィッシュ』が第8回小説宝石新人賞・優秀作に選ばれ作家デビュー。

 

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