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2017.02.17

『バージンチーク』 #13 大西智子

  姉はしばらく汐里を見ていたが、やおら声を上げた。ゲームしてていいからあっちの部屋に行っといて、と汐里に言いつける。汐里は立ち上がり、従順な動きで部屋を出た。姉がまたひときわ長いため息をつく。

「出ていったのよ、あの人。汐里の、義理の父親」

  え、と私はまぶたを持ち上げた。姉はふてくされたように、背もたれに身を預けている。

「どうして」

「知らない。わからない。ある日突然出ていったの。なにも言わずに、私たちを置いて」

  姉の声は場違いなほど澄んでいた。明け方の空気のように冷たい。

「重荷になったんじゃない。いきなり子持ちになって、苦労してたからあの人。いつかこうなるんじゃないかと思ってたのよ。喧嘩も絶えなかったしね。そのたびに暴れたり怒鳴ったりするから、汐里もすっかり怯えちゃって。男の人怖がるようになったのも、きっとそのせいね。最近では顔見るだけで避けるようになってたから。あの人、元々汐里のこと持て余してたのに、怖がられるようになってよけいに距離感じたみたい。あの人もかわいそうな人なのよ」

  言葉を重ねていくうちに、姉から吐き出された毒素のようなものが膨らんでいく。ぱんぱんに張りつめ、ちょっと触れれば破裂しそうな危うさがあった。

「あの人よく、俺は父親になんかなれないって言ってたもの。でも汐里に好かれようと努力はしてた。あの人が偉かったのは、汐里には絶対に手を上げようとしなかったことね。その代わりいつも言い聞かせてた。なにかあるごとに汐里を対等な大人のように扱って、目線を合わせて、噛んで含めるように言い聞かせるの。それがあの人のやり方だった。汐里はそんなあの人に、いつまで経っても懐かなかったけど」

  懇々と言葉を尽くし、汐里に言い聞かせていた彼の姿が思い浮かんだ。姉は言葉を詰まらせ、喉に蓋をされたみたいに苦しそうに喘いだ。細い指を喉元に当てる。

  そうして姉は汐里を私に預け、生活感のありすぎるこの部屋に、たった一人で残ることにした。汐里から逃げたのは、姉も同じだ。

「ねえ、もしかして、しいちゃんを私に預けたのって」

  自分がふと思いついたことを、口にしたくなくて言いよどむ。しかし姉は私の考えを敏感に嗅ぎ取り、鋭く口を開く。

「仕方ないじゃない、誰も悪くないのよ。誰も悪くないのに、どうしようもない」

「そりゃ、子育ての大変さとか、私にはわかんないよ。でも一番悪くないのはしいちゃんだよ。そのしいちゃんに全部しわ寄せがいってるじゃない」

「わかってるわよ」

  わかってる、と言いながらも、姉はなにもわからない子どもみたいにひどく頼りなかった。姉が両手で顔を覆う。泣くのを懸命に我慢しているようだった。

「その人は、今どこでどうしてるの」

  姉が汐里を、娘を追い出してまで帰ってきてほしいと願うその男が、今どこでなにをしているのか、姉の感情を無視しても確かめたかった。姉の肩と喉が小さく上下している。

「帰ってきてないのね」

「連絡しても、詳しいことは教えてくれない。しばらくほっといてほしいって。帰るつもりがあるのかどうかも、なんにも」

  私は息を吸いこみ、それから一気に吐き出した。自分の内から熱いものが外に放射されるのを感じた。汐里が読むはずもない青年漫画雑誌や、煙草のケース、ハンガーにかかった男物の上着、穴の空いたふすま、ひび割れたガラス、今まで目につかなかったものたちが、部屋の中でいやに存在感を強める。

「だったらもう諦めたほうがいいんじゃないの。どっちみち逃げ出すような人に、この先しいちゃんの父親は務まらないでしょ。親子二人でもどうにかすれば……」

「わかってるわよ! わかってる。別れるわよ。別れればいいんでしょ。そんなこと言われなくてもわかってるの。ちゃんとするわよ。娘のためだもの」

  姉は一度大きくしゃくりあげると、あとはもうなにもはばからずに泣き始めた。姉の漏らす嗚咽が、私にまとわりつく。心臓がきゅうきゅう締め上げられる。ひとつの大きな氷塊になったみたいに、全身が凍てついた。癇癪を起こしたときの姉は、いつもこんなふうになった。駄々をこねる子どもと同じだ。頭の中心から冷めていく。

「汐里はね、やさしい子なの、本当に。いじわるされて大事な物取り上げられても、いいの、あげたの、って言うような子なのよ、昔っから。でもあの子私になんにも言わないの。なにひとつ話してくれない。あの人のことだってそうよ。あの人が出ていってから様子がおかしいの。前にも増して無口になった。なにかあったのかもしれないけど、言ってくれなきゃどうしようもない。わかんないわよ。そのくせ物欲しそうに見るのよ、私のことを。求めてるの、私を。私がなにかしてくれるのを。たまんないわよ。どうしてほしいかなんてわかんないわよ。私そんな完璧な母親じゃない。いくら自分が産んだ子だからって、あの子がなに考えてるかわかんないの。あの子ね、起きてるときはそうやってなにも言わないくせに、ときどき寝てるときにうなされてるの。寝言で、いやだ、いやだ、やめて、って。もう、いったいどうしろっていうのよ」

大西智子 Tomoko Onishi
1979年大阪府生まれ。 京都光華女子大学卒業。 2008年に『ベースボール・トレーニング』で第26回大阪女性文芸賞を受賞。 2014年に収録作の『カプセルフィッシュ』が第8回小説宝石新人賞・優秀作に選ばれ作家デビュー。

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