美ST ONLINE 無料会員登録 あなたの「美生活」に役立つ情報お届けします

新着
2017.02.24

『バージンチーク』 #14 大西智子

  姉は興奮し、語気を強める。頰を濡らし、唇を震わせ、力なく首を振る。浅い呼吸を繰り返しているかと思えば、ねえ、と一転落ち着いた声を出して、私をまっすぐに見た。まぶたが腫れ、目が赤く充血している。姉の顔をまともにとらえることができない。美しいと思っていた顔が、無残に崩れていく。

「一番大切なはずのものが、ひっくり返って、一番憎いものになって、一番守らなきゃいけないものを、一番傷つけてしまう恐怖が、わかる? ねえ、わかんないでしょ、あんたには。いいよね、あんたは」

  呪詛じみた姉の言葉が突き刺さる。私は姉のよく動く唇を見ていた。生き物のように艶めかしい。頰に涙が伝う。恐れや怒りや悲しみや不安や、姉の涙はそれらの感情を体内で絞って滲んだ、ぐちゃぐちゃに乱れた感情のしぼり汁だ。透明な感情を濾して残った残りかすだけを、体の一番奥深くで燻らせている。姉はぽつぽつと、小雨のような言葉を床に落とす。

「子どもがほしいと思ったことなんて、本当はなかったのよ。でもあのとき結婚を反対されて、むきになって、ほとんど両親へのあてつけのつもりで汐里を産んだの。私だって立派な親になれるって、証明するために」

  踏み潰したイモムシから体液が滲み出るのを見たときのような、後味の悪さが残った。私は黙って聞いていたが、心の奥にまで姉の言葉を通過させることはなかった。汐里が生まれて八年も経っているのだ。なにを今さら身勝手なことを言っているのだと、白々しい気分になる。

「あんたにはわかんないわよ」

  私は息を吐き、ゆっくり瞬きをする。目を開けた。同時に、汐里がキッチンの入り口に立っているのが目に入った。白く、色味のない表情を顔に張りつかせ、ぼうっと突っ立っている。まずい、と思った瞬間に私は立ち上がっていた。姉は気づいておらず、なに、と怯えたように叫ぶ。それを一瞥し、汐里の元へ駆け寄って、行こう、と小さな手を取った。

  姉は呆気にとられていたが、私たちが出ていく間際、なにか不明瞭な言葉を発した。なんと言ったのかは聞き取れなかった。手ごたえのない汐里の腕を引き、まだ明るい外に出る。握った手に力をこめた。

  逆らいもせずついてきた汐里は、電車の中で揺れに身を任せていた。一時間ほどかけてマンションに帰り着き、携帯を見ると姉からメールが届いていた。迷惑をかけて悪かった、男のことは諦める、汐里と二人で暮らしていきたい、ということが、煩雑な文章で書かれてあった。

  棘を含んだ、苦い気持ちになる。姉の言葉を淡々と受け止めた。肯定も否定もしない。なにを信じればいいのか、どうすればいいのか、判断がつかないというのが正しい。姉の暮らしぶりを想像するだけで、体が重くなる。カフェインを摂りすぎたあとみたいに舌がざらざらし、胃からこみ上げてくるものがある。私にできることなどなにもないと思えて仕方がなかった。もう一度文面を読み返し、メールを閉じて携帯を放り出す。

  大人しくソファに腰かけている汐里の顔に、生気はない。初めて連れてこられたときも、小さくなってここに座っていた。あのときより、いっそう存在感が希薄に見える。

  顔は能面のように真っ白だった。一色で塗りつぶしたようなのっぺりとした顔。リビングの窓に映った自分の顔と、そっくりだ。そういえば、彼にも似ていると言われた。彼はほんのり色づいた私の唇や頰には、まったく気づいていなかった。

「疲れたね」

  心の底から湧いてきた言葉に、汐里がうなずく。私は唇を湿らせ、意を決して一語一語はっきり話した。

「あのね、しいちゃん。もしさ、しいちゃんが、お母さんの家に帰りたくないっていうんだったら、ずっとここにいてもいいんだよ」

  汐里は戸惑うように、黒目を左右に揺らした。しかしその目には明らかな拒絶があった。

「……いい。帰る。お母さん、私がいないとダメだから」

  ゆっくりと、首を振る。私の安っぽい救いなど、求めていなかった。汐里の手が、肌にぺたぺた張りつくのを厭うように、スカートの裾をぎゅっと握りしめている。そっか、そうだね。自分の声が頼りなく響く。どうしようもない、と思った。私がしてやれることなど、たかが知れている。

「ねえ、しいちゃん。白いポーチ貸してみて」

  ふと思いついて、言う。汐里の暗い顔を見ていて、せめて、と縋りつくような気持ちで願った。汐里は訝しげに私を見て、それでも素直にかばんから白いポーチを取り出した。姉の自意識のかたまりに見えた化粧品だったが、私はそれを両手でうやうやしく受け取る。汐里にとっては、母親からもらった宝物なのだ。

「しいちゃん、ちょっと顔貸して」

「お化粧、するの?」

  そうだよ、と笑う。私が今から魔法をかけてあげる、と大仰に言い含めると、汐里は気遣うように笑った。

大西智子 Tomoko Onishi
1979年大阪府生まれ。 京都光華女子大学卒業。 2008年に『ベースボール・トレーニング』で第26回大阪女性文芸賞を受賞。 2014年に収録作の『カプセルフィッシュ』が第8回小説宝石新人賞・優秀作に選ばれ作家デビュー。
totop
Mail
Instagram
rss
美ST
美魔女
セレSTORY
STORY
光文社

Copyright© 2017 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.