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2017.05.05

『ありのままの女』 #7 麻宮ゆり子

  ちなみに私はこの店ではカタカナの「トーコ」で通っている。

「本物の招き猫ですね」

  スーツを着た、常連の四十代の男性が私の前に座った。

「石切山さん、いつものジョニ黒でいいですか」

「はい、トーコさんが作ってくれるなら僕はなんだって飲みますよ」

「それはどうも」と、にっこり返す。

  石切山さんはジョニーウォーカー黒ラベルの水割りを飲んだあと、牛肉のしぐれ煮をおいしそうに食べている。
  箸に添えられた、男性にしては長く美しい指には指輪がない。落ち着いた雰囲気があるのに、毎回こんな感じでアプローチが前のめりだから、結婚している男なのかもしれない。まあ、この年齢の男ならたいてい結婚しているだろうけど。

「今日もお仕事帰りですか?」

「はい、もうへとへとです。この店に来るのだけが僕の楽しみですよ」

  土曜に出勤する仕事というとサービス業だろうか。いろいろ推測するが、あえてそれ以上は聞かないようにしている。猫好き女子たちも、私も、みんな東京の勤め人であるということ以外、互いに何も知らないし、話さない。こういう店では知りすぎないくらいがちょうどいいのだ。

「オー、みなさんイラッシャーイ」

  大声で同級生の夫のジャックがやって来た。丸太のような腕に茶色の毛がもじゃもじゃ生えている、琥珀色の目をしたカナダ人だ。

「石切山サン、いつものジョニ黒飲んでるねえ? ボクの名前知ってる?」

「ジャックさんですよね」と少々迷惑そうな石切山さん。

「そう!」と言ってバットを握って振る真似をする。

「ジャック・ハズ・ア・バット・アンド・ツーボールズね。知ってる?」

  ぎゃははは、そのCM知ってるーと女子たちが大笑いする。

「オー、あなたたち若いのになんでこんな昔のこと知ってるの?」

「このまえ動画サイトで見たよォ」

  女子三人組の二人が「ジャック・ハズ・ア・バット・アンド」と真似している横で、もう一人の子はポン助を慎重に撫でていた。ポン助が「もう触るな」とばかりに体勢を変えると、ざるに結ばれた鈴がりんりんと鳴った。

「仕事はどう?」

  声をかけると、まだあどけなさの残るロングヘアーの女の子は、にこにこしながら「たまに死にたくなったりします」などと言う。

「でも、このお店に来てポンちゃんとトーコさんに会えると思えば大丈夫。一週間なんとか乗り越えられます」

「それは責任重大……。ねえ、疲れたときは疲れたって、ちゃんと口に出して言うのよ」

「はい」

  と頷いたあと、あー疲れたよー、と天井に向かって声をあげている。
  こんなイマドキのきれいな子でも働くことがつらいのか、と思う。いや、イマドキの子だからこそつらいのだろう、と思い直す。私が彼女くらいの年のときは、世の中が浮かれ切っていて、お金を払って猫を触りに行ったり、猫に癒されるなんて感覚を求めている人はいなかった。
  ふいにジャックが寄ってきて耳打ちする。

「トーコさん、一人で働いてて危ないことないですか?」

「大丈夫よ」

  私はカウンターの下にある警報ボタンを見た。初めは歌舞伎町の、手を伸ばせば触れられそうな狭い店で、一人きりで接客することを怖いと思ったこともあったのだが、今となっては慣れたものだ。両隣に他の店がたくさん並んでいるから、何かあったときは助けを求めればなんとかなる。

「市美は元気?」と私は同級生の名を言った。

「元気げんき。もう子供も三人だから、キモイ母さんだよ」

「キモイって失礼ね。肝っ玉母さんでしょ?」

「そう、それだね」

  しばらく場を盛り上げると、ジャックは近くにある別の経営する店舗へ戻っていった。
  お客さんが全員引いたのは朝の四時を過ぎた頃だった。
  このあとは猫も入店可能な喫茶店で朝食を摂り、始発で帰るのがいつもの順番だ。

「アタタ」と洩らし、腰に手を当てた。

  さすがにこの年になると、深夜出突っ張りの立ち仕事はきつい。お客さんと接している間は疲れなど忘れているのだが、一人になったとたんドッとくる。
  けれど会社とまったく違う仕事をするのは、いい気分転換になった。それに今は、認知症を発病した母の有料老人ホームの入所料金が、毎月容赦なく私の口座から引き落とされている。女一人と猫一匹だけなら会社のお給料だけでやっていけるのだが、母のことも含めると、やはり収入面が不安だった。沖縄の妹夫婦は子供がいて、借金もあるからアテにはできない。
  だから同級生の市美に、「この店の店長、一日だけでもやってみない?」と持ちかけられたときは、ありがたいと思い、すぐにのった。
  鼻歌を歌いながら片づけを済ませ、ざるのベッドで寝ていたポン助に「お疲れさま」と声をかける。彼をバスケットに入れると表のドアの鍵をかけた。鍵はこのあとジャックの店まで返しに行く。

「よいしょっと」

  バスケットを持つと、バッグの重さと合わせ、ずっしりと膝に響いた。

「ちょっとポン、少しダイエットしたほうがいいんじゃない?」

  バスケットに話しかけると、「ふにゃあ」とやる気のない声がした。ああ、眠気で目の前がふらふらする。
  ゴールデン街を出て、ホストやホステスがたむろする場所を抜け、駅に近いラブホテルの横を通りすぎる。ふと朝日のまぶしさに目を細めたとき――突然、背後から強い力で抱きすくめられた。
  そのまま身体ごと強引にビルの裏の暗がりへ引っ張られる。
  あまりの恐ろしさに一瞬、我を忘れたが、慌てて気を取り直した。なんとか振り切ろうともがいたら、バッグとバスケットが千切れるように手から飛んで離れた。重みのあるバスケットが地面に強く打ちつけられた音がする。

「ポン!」

  たちまち大きな手が私の口を塞いだ。

「……僕です、騒がないでください」

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。

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