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2017.05.12

『ありのままの女』 #8 麻宮ゆり子

  すぐ後ろで身体を密着させる男は、片手で私の両手首を束ねるようにつかみ、もう一方の手は口から離そうとしない。
  あまりの息苦しさに夢中で胸を上下させる。真後ろの男はそれ以上に呼吸が上がっているようだった。耳のそばから酒臭い息がかかり、お尻に固く熱いものが当たった。

「トーコさん、僕、ずっと、トーコさんのこと待ってたんです。だから、あの……」

  ジョニ黒の石切山さんだ――。理解したのと同時に、目の端がのそのそと動くものをとらえた。倒れたバスケットのふたが開き、ポン助が這いつくばって外に出ている。
  通りがかった車に驚いたポン助は飛び上がり、今歩いて来た繁華街の方へ走っていった。
  ――ポン! ポン助ッ!
  男の手の下で言葉にならない悲鳴をあげる。石切山さんは、はあ、はあとしきりに息を荒くし、こっちを捕らえることだけに必死で、猫が逃げたことなど気づいていないようだった。

「ね……、石切山さんでしょ? 大丈夫、お互い大人だから、わかってるから」

  なんとか首をひねって言うと、腕をつかむ手の力がゆるんだ。それでもあえて動かずにいると安心したのだろう。私の口と腕から手が離れた。――が、許すわけがない。
  彼の正面に回り込むと、あまりに悔しくて、

「このやろうッ」

  と震えの混じった声で叫び、思い切り股間を蹴り上げていた。
  甲高い悲鳴をあげ、前を押さえてうずくまる石切山さんを置いて、ポン助を追おうとしたが、今度は肩をつかまれた。そうして揉み合っているうちに私のウイッグが外れた。

「あ……」

  こぼれ出た長い髪を見た石切山さんの動きが、ぴたりと止まる。
  わずかに下を向いた彼は舌打ちし、卑怯なほど目をそらすと顔をゆがめた。

「……なんだ、ババアかよ」

***

「おはよう」

  総務のみんなに声をかけ、私は自分のデスクに向かった。
  右手に総務部リーダーの縄井くんと武下さんが縦一列に並び、左手の壁を背にして手前から飯野さん、蓮沼くん、斎木くんと座っている。

「いつも僕なんかよりずっと早く出勤するのに、今日はずいぶんと遅かったですね」

  そう言って書類を渡してくる縄井くんを見上げると、「ごめんなさい」と素直に伝えた。彼はジャケットからのぞく私の両手首の痣を、目ざとく見つけたようだった。「それ、どうしたんです?」と、にやにやしている。

「縛られたのよ」

  目を見ながら答えると、面食らったようだった。
  日曜の早朝、石切山さんの件があったあとはジャックに電話を入れた。ジャックが慌ててやって来て、そこへ上の子を連れた市美も混じり、四人で半日かけてポン助を探した。
  子育てで忙しい市美と会うのは久しぶりだった。半年ぶりの再会のきっかけがこんなことになるなんて、私は申し訳なくて仕方がなかった。市美の小学生の長女にも、「今日は日曜で学校お休みでしょ。ありがとう、もういいから」と伝えたのだが、彼女はポン助のことが好きだからと言って、父親似の色素の薄い目を伏せ、暗くなるまで手伝ってくれた。
  市美とジャックに勧められ、石切山さんの被害は交番に届けたのだが、しょせん身体の被害は「未遂」で、いなくなったのは「猫」にすぎない。のらりくらりと警察に質問されている間にもポン助が遠くにいってしまうような気がして、じっとしていられず、質問には適当に答えて、とっとと交番から出てきてしまった。
  私は家にいない時間が長いから、ポン助を土曜の晩まで一匹でいさせるのは気の毒だ……。そう思い彼を店に連れ出したのが、そもそもの間違いだったのだ。小さい頃からずっと私からご飯をもらってきたポン助が、外の世界……しかも新宿なんて雑多な街で生きられるとは思えない。しかも彼は十二歳と高齢だ。
  こんなとき、私にパートナーがいれば、ポン助のことを任せて少しは仕事に集中できるのだろうか。もしいなくなった子が人間なら、会社を休むこともできるのだろうか。どうして猫では許されないのだろう……? 同じ屋根の下で暮らす家族なのに。
  考えても詮ないことばかりが浮かんでしまう。不安を気取られぬよう、私は平然と仕事を進めた。上が動揺していたら、その波は必ず部下たちに伝わる。チームの雰囲気を上司が崩すなんてありえない。堂々としていないと……。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。

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