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2017.05.19

『ありのままの女』 #9 麻宮ゆり子

  深呼吸して気持ちを切替えると、新人の武下さんを見た。
  彼女が総務に来てから一ヵ月が経過した。武下さんはすました顔で淡々と仕事を進めている……かと思いきや、すれ違ったとき、彼女のシャツの襟の内側が汚れているのが見えてしまった。実は今日だけのことではない。ここ一週間ほど同じようなことがあり、気にかかっていた。

「縄井くん、ちょっと」

  と彼を別室に呼んだ。

「武下さん、どう?」

「いやあ、普通にやってますよ。見た通り」

「見た通りって……」シャツのことは伏せた上で伝える。「前より顔色が悪いし、少し疲れてるような感じがしたんだけど」

「そうですかね? 本人には何を教えても『できる』の一辺倒だから、大丈夫なんじゃないですか」

  とぼけた顔で当たり障りのないことしか言わない。あまり後輩の責任を負いたくないのだろう。たぬきめ……。
  昼休みに市美から届いたメールを開けると、ポン助の写真の下に《猫探してます!》と幼い字で書かれたポスター画像が添付されていた。どうやら市美と長女が共同で作ってくれたようだ。「子供の字のほうが同情心を誘うでしょ。あきらめないで」とメールには書かれていた。ポスターは歌舞伎町じゅうに貼るのだという。

「ありがとう」

  と心を込めて返信を打ち、小さな液晶の向こうのポン助を見たら、鼻の奥がツンとした。
  ……ポン助、いったい今、どこで何をしているの?

  全員の仕事をチェックすると、武下さんだけ、提出する書類の締切が守れていなかった。
  けれど彼女は今日も平然とパソコンに向かっている。どう見てもサボっているようには見えない。少し目を充血させ、前のめりにキーボードを叩いているところなど、むしろ必死さがにじんでいるような気さえする。
  夜も七時を過ぎ、他の社員たちが帰っても、武下さんは帰ろうとしない。私は彼女の隣の、縄井くんの席に腰かけた。

「保険の書類の提出が二日も遅れてるの、わかってる?」

  すると、あたふたと机上をかき回す。さまざまな書類が散乱していた。これではとても細かい作業など進められるはずがない。

「今やってる仕事全部見せて」

  武下さんはたちまち目をむいて、勝ち気な表情を見せる。

「でも、私ちゃんと……」

「口答えするんじゃない。見せなさいって言ってるの」

  私は書類やファイルの山をごっそり奪い取り、仕分けていった。
  終わっている仕事、まだ途中の仕事、締切をすぎている上に滞っている仕事……。いろいろ混ざっている。

「こっちの書類のほうが締切は先でしょう? なぜ後回しすればいい仕事を今やってるの? きちんと優先順位をつけて締切の早いものからやっていきなさい。そうしないと最終的に、総務どころか会社全体に影響することになるのよ」

「はあ……」くちびるを少し尖らせている。

「もしかして……、何か困っていることがあるの?」

「いえ」と断言して目をそらす。「全然」

「どうしてそんな虚勢を張るの。何があったのかは知らないけど、ここはあなたが勤めていた前の会社じゃないの。新しい職場、新しい環境なのよ」

  武下さんの顔にハッとした色がよぎった。何か思うところがあったようだ。

「…………」

「早く言いなさい。あなただって忙しいんでしょうけど、私だって時間があるわけじゃないのよ」

  あえて負担をかけないよう、腕時計を叩きながらそう言った。

「あの……、会社のシステムで、少し、わからないところがあって……」

「縄井くんに聞いたらいいじゃない」

  武下さんは視線をそらし、リップも塗っていない、乾いたくちびるを強く噛んだ。

「『俺は一度しか説明しない、二度目はないからな』って言われて……」

  彼女に聞こえないよう、小さくため息をついた。そんなことを言われたら、プライドが高い彼女は、質問なんてできなくなってしまう。縄井くんはいい年をして何を器の小さいことをほざいているのだ。武下さんの高飛車な態度が気に障るから意地悪をしてやろう、という気持ちになるのもわからなくはないが、彼女の仕事が終わらなければ、その分全体の仕事に遅れが生じる。そんなことくらいわかるだろうに……。
  そこまで考えたところで私は少し笑った。
  車椅子に乗った蓮沼くんから私は陰で、「上から目線だ」と言われていることを思い出したからだ。
  縄井くんの机には、小さなお子さんを抱っこした奥さんの写真が、額に入れて飾られている。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。
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