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2017.05.26

『ありのままの女』 #10 麻宮ゆり子

  椅子をくるりと回し、武下さんの方を向いた。

「システム関係は斎木くんが詳しいのよ、彼には聞いた?」

「えッ」武下さんは露骨に身を引いた。その顔には「斎木が苦手だ」とはっきり書いてある。構わずに続けた。

「明日聞いてみたらいいわ。締切は明後日に延ばすから、いいわね? 今日は帰ってゆっくりお風呂にでも浸かりなさい。あなた一人暮らしでしょ? 洗濯ものもたまってるんじゃないの?」

「そ、そんなことありません!」

「まだ言うか。早く帰りなさいって言ってるの」

  武下さんの背を一度、強く叩いてやった。
  すると彼女は鞄をたぐりよせ、「お先に失礼します」ときっぱり残し、帰って行った。
  向上心の強い努力家なのだろうが、一方向の努力だけではうまくいかないことが、この世にはたくさんある。もしかしたら、苦しんでいるのかもしれない。前の会社で彼女に何があったのか、透けて見えるような、見えないような……。
  さて、と気持ちを引き締める。――このあとはポン助探しだ。
  社屋を出ると歌舞伎町方面に向かう地下鉄に急ぎ足で乗った。



  結局、終電近くまで探したが、ポン助は見つからなかった。
  あの子がいなくなってから今日で三日。声が聞こえたような気がするたびに、そんなわけはないと思いつつ、何度でも自宅のドアを開け、外を確かめた。
  きっとお腹がすいているだろう。ちゃんと眠れているのだろうか。ノラ猫たちからいじめられていないだろうか。もしも車に轢かれていたら、どうしよう……。
  首にマイクロチップを入れているから、保健所に保護されたときは連絡がくるはずだ。しかし携帯には知人以外からの着信はない。
  悪い妄想はいくらでも湧いてくる。パソコンのキーボードから手を離し、こめかみを揉んでいると、

「今、僕は自分の仕事をやっているんです。話しかけないでください!」

  と神経質な声が飛んできた。斎木くんの後ろに立っている武下さんが、目を潤ませて悔しそうに口をゆがめている。どうなるかと思って見ていると、裾の長い真っ黒な服を着た飯野さんが武下さんのそばに行き、二人は顔を寄せて何か話しているようだった。……よしよし。

  午後四時を過ぎた頃、武下さんはもう一度斎木くんに声をかけた。すると斎木くんは、別人のようにシステムの使い方を教えてあげている。くり返し聞かれても文句を言わず、むしろ細かすぎるほど丁寧に説明しているようだった。

「水元部長、あの……斎木さんが教えてくれました」

  廊下を歩いていると、武下さんが恥ずかしそうに報告に来てくれた。

「この会社は基本、肩書きはつけずに呼ぶのがならわしだから、『部長』はいらないわよ。斎木くんはね、一度に一つのことしかできない性質なの。でも仕事が早いから四時には全部終わらせてる。つまり四時以降に聞けば、気難しい彼も丁寧に教えてくれるってわけ」

「飯野さんもそんなことを言ってました」

  武下さんの全身からこわばりが抜けたようだった。ツンとした虚勢の皮が弾け、その下から少し、あどけない素直な顔が現れたような感じ。彼女がぼそっとこぼした。

「世の中には……、いろんな人がいるんですね」

  するといつの間にか、私たちのすぐそばに斎木くんが立っていた。彼はいつもお気に入りの水玉模様がついたものを身につけている。今日はネクタイが水玉柄だ。

「水元さん。さっきからずいぶんと上司らしいことをおっしゃっていますが、ご自分が今日、眉毛を描き忘れているのをご存知ですか?」

「眉? えッ? 私が?」

  思わずひたいを手で隠す。今朝、寝坊をした私は、アユーラの化粧水を浸したコットンで顔を拭いただけで洗顔を済ませた。そのあとのことは記憶が定かではない。
  武下さんは少しうつむき、ばつが悪そうに目をそらしている。ずっと気づいていたのだろう。

「まるで額縁のない絵のような、ぼんやりした顔をしていますよ」

  斎木くんの容赦ない指摘に、「ちょっと、失礼ですよ!」と、さすがの武下さんも声を張った。

「僕は事実を言っているだけですが……」

  最後まで聞かず、慌てて化粧ポーチを持ってトイレに駆け込んだ。鏡をのぞくと確かに、眉が半分くらいの長さしかない。描き忘れている。まるでお公家さんのようだ。

「どうして誰も教えてくれないのよ!」

  そういえば今日、不機嫌そうに貧乏ゆすりをしていた縄井くんが、私の方を見たとたん、にやりと笑っていたが……こういうことか。
  朝から話した人の顔と、その反応を一人ずつ思い出しながら、急いで眉を描き足した。
  しかしボロが出るのも仕方がない気がした。必死に上司ヅラを繕っているが、心の中はポン助への心配でいっぱいなのだから……。
  鏡に映る私は頰がこけ、目はくぼみ、睫毛も下がり、武下さんのことをどうこう言える外見ではなかった。大きなため息をつくと、そのまま膝から崩折れてしまいそうになる。
  洗面台に両手をついて、必死に不安を飲み込んだ。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。
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