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2017.06.02

『ありのままの女』 #11 麻宮ゆり子

***
  土曜の晩、「バー・ポン助」はポン助不在のまま開店した。
  会社では忘れていたのに、カウンターに立った途端、石切山さんの穏やかそうな笑い顔と、背後から口を覆われ、自由を奪われたときの取り返しがつかないような、ぞっとする感覚とが混然となって湧き返り、プラスチック製の容器を持つ手が止まった。
  立ち尽くす私にジャックが聞いてくる。「大丈夫? トーコ」

「うん……、平気よ」

「しばらくはボクもいるから、今度来たとき石切山はこうだよ」

  ジャックは太い腕でがばっと首を絞める真似をした。
  また来るかもしれないという恐れがないといったら嘘になる。けれど、たぶん石切山さんはもう来ないような気がした。サラリーマンなら、下手な事件で名前が表に出るのを怖がるはずだ。相手は世間知らずの臆病な女子高生などではなく、五十間近の女なのだから。
  店に来るまでの間に、ポン助を探すポスターを何枚か見かけた。ゴールデン街付近で顔の広いジャックと市美が、他の店主たちに頼んで、店の入り口など人目につく場所に貼ってもらったのだろう。だが、それらのポスターを見るたびに、私は罪悪感にかられた。つい目をそらしてしまう。こんな喧騒の多い雑多な街で、とても猫が見つかるとは思えないからだ。
  先週も来たロングヘアーの女の子が、今日も来店してくれた。ポン助がいないので気落ちするかと思いきや、予想外にはっきりした口調で言う。

「ポンちゃんは普通の猫と違うところがあるから、帰って来ると思います」

「どうしてそう思うの?」

「トーコさんはどうして信じられないの?」

  強い視線を当てられ、動揺した……。
  確かに、ポン助は目が片方見えない分、他の猫より嗅覚と聴覚がずば抜けている。

「ほんとにそうだわ、あなたの言う通り。私が信じないと」

  ジャックと市美に許可をもらい、ポン助がカウンターでいつも寝ていた、鈴のついた木製のざるを店の外に置かせてもらうことにした。なくならないように入り口横の柱に紐で結んでおく。
  猫は自分の匂いが染みついたものを好む習性がある。この界隈に店は数え切れないほどあるが、こうしてなじんだざるを置いておけば、――ここが自分の帰るべき場所だと理解してもらえるかもしれない。
  風が吹くと、ざるについた鈴が鳴った。



  会社では、新人の武下さんもだいぶ職場の雰囲気に慣れてきたようだった。
  彼女は隣の縄井くんには質問をしない。露骨に彼を避けている。その代わり、わからないことがあると、やたら私に聞いてくるようになった。

「水元さん、この資料なんですけど」

  と休憩室にまで質問に来た彼女に、あのねェと伝える。「私ばかりに聞かないで、他の人にも聞きなさい」

「あ、すみません、お忙しいですよね」

  横を向いて顎を上げると、すぐさま立ち去ろうとする。あまり人を頼ったり、甘えたりすることに慣れていないから、忠告を注意と取り違えてしまったのかもしれない。

「待ちなさい」

  後ろから彼女を呼び止めた。「忙しいとかそういうわけじゃなくて……、あなたって友達少ない方でしょ?」
  カチンときたらしい。すぐ顔に気持ちが出るからわかりやすい。

「友達が少ないことが悪いって言ってるんじゃないの。ここは会社なのよ。話しにくい人も、そうでない人もいる。だからこそ同じ人ばかりに聞くんじゃなくて、このまえの斎木くんのときみたいに、いろんな人に聞いてみるの」

  武下さんは、まだわからないといった様子で眉を寄せ、くちびるを尖らせている。

「リスクは分散させなさいってこと」

「あ、それならわかります。もし水元さんがいなくなったときも、対応できるようにしておけってことですよね」

「……まあ、ね」

  ちょっと違うんだけど……。苦い気持ちが湧いてくる。
  そんな思いに気づいていないであろう武下さんは「ありがとうございました」と目を輝かせて、くるりと背を向け、意気揚々と戻って行く。彼女のシャツの襟の内側はもう汚れていなかった。たまった洗濯ものを洗う余裕も、少しはできたのだろうか。
  ならよかった、と、ため息を吐くように思った。
  紙コップに残ったコーヒーを飲みながら、ふと、元夫とのことを思い出す。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。

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