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2017.06.09

『ありのままの女』 #12 麻宮ゆり子

  十二年前、夫と別れた直後、胸の内で何度も彼のことを悪魔のごとく罵った。許せないと声をあげ、泣きながら市美に話を聞いてもらったこともあった。けれど、今となっては離婚の原因は私にもあったのだとわかる。狭い夫婦関係を築き、その中で夫ばかりを頼り、何もかも打ち明け……つまり精神的に彼に寄りかかりすぎたのだ。
  こうして別の角度から過去を見られるようになってから、わかることがある。
  あー、長く生きてきてよかった。
  味気ないコーヒーを飲み終えると、険しい顔の常務が早足でこちらにやって来る。

「水元くん、休憩中に悪いが、ちょっと」

  手招きされるまま、会議室に入った。長机の角を挟んで斜めに向かい合って座ると、常務は陽に焼けた頰をピクピクと痙攣させながら、必死に声を抑えようとしている。



  総務部に戻ると、パーテーションの向こうの他の社員に聞こえないよう、別室に総務のメンバーを集めた。

「斎木さんがいませんけど」

  と、武下さんが手を挙げる。

「斎木くんは仕事中に自分のペースを乱されるのが嫌いなの。性格とかそういうのじゃなくて、無理に中断させると混乱するから、そっとしておいてあげて」

  早口で告げると武下さんは慌てて口を閉じた。前に言い返されたときの剣幕を思い出したらしい。
  私はみんなの顔を一人ずつ確認した。込み上げる緊張を抑えながら、あえて言葉を区切るようにして伝える。

「さっき常務から聞いたんだけど、うちの社員五百人分の個人情報が他社に洩れたそうよ」

「えッ」みんな青天の霹靂といった表情をみせる。

「うちの社員の個人情報が入った電子名簿を、怪しげな業者がネットを通じて売りに来たというの――他社にね。その他社の方が親切にもうちの社長に教えてくれたそうよ。上が言うには社員の情報を扱うのは主に総務だから、総務から洩れたんじゃないかって……」

  私は一人ずつ顔色をうかがった。
  みな、きょとんとしている……かと思いきや、武下さんの表情が暗い。前におろして重ねた指を、強くにぎっている。
  蓮沼くんは何食わぬ顔でのんきな声をあげた。

「でも社員の情報なんて、うちだけじゃなくて、経理や人事だって扱ってるんじゃないスか?」

「そう。だけど社員の家族のこともひっくるめて扱ってるのは総務よね。家族の情報も洩れたみたいだから、うちがいちばん黒に近いと思われてるみたい」

  あのさあ、と縄井くんが切り出した。

「武下さん、このまえメモリースティックに何か入れて持ち帰ってたよね。あれって社員の個人情報じゃないの?」

  全員が武下さんを見た。
  彼女は耐えるように黙っていたが、しばらくすると「すみませんッ」と頭を下げた。

「持ち帰りました、あの……ネットカフェや自宅のパソコンに差して使いました」

「どうしてそんなことをするの、個人情報の持ち出しは許可を取るのが決まりでしょう」

  指摘すると、武下さんは目を伏せてぼそぼそと話す。

「仕事の遅れを取り戻さなきゃって、そのときはとにかく夢中で……」

「持ち帰り残業ってやつ? 必死なのはわかるけど、そのせいで会社のシステムにウイルスを感染させたんだとしたら本末転倒。やっちゃったね」

  縄井くんが追い打ちをかける。責任を感じたのか、武下さんは青ざめた顔を両手で覆った。

「縄井さん。前から思ってたんだけど、なんでそんな意地悪な言い方するんだよ。新人ですよ、彼女」

  そう言って蓮沼くんが車椅子から見上げると、縄井くんは肩をすくめて見下ろす。

「新人? 関係ないでしょ、中途なんだから。個人的な感傷はやめましょうよ、この際。五百人ですよ? 水元さん、いったいどうするんです?」

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。

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