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2017.06.23

『ありのままの女』 #14 麻宮ゆり子

  よくわからないが、普段冷静な斎木くんにしてはめずらしく熱がこもっている。私は、曖昧な言葉を理解しにくい彼の性質にそって、あえて具体的な言葉を選びながら伝えた。

「わかった。斎木くんに会社のシステムに介入する権利を私の責任において、与えます……。ただしこの件は斎木くんと私だけの秘密よ」

「ありがとうございます。がんばります!」

  斎木くんは総務のあるフロアへ行こうとする。彼のポケットからハンカチが落ちた。

「あ、斎木くん」

  と声をかけたら不機嫌そうに振り返った。彼は自分のペースを乱されるのが嫌いなのだ。

「落としたわよ」

  紺色の水玉がちりばめられたハンカチを差し出すと、彼はスーツのポケットを叩いて、空なのを確認し、慌てて両手で受け取った。丁寧に頭を下げてくれる。

「ねえ、斎木くんのことを一つだけ教えて」

「ハンカチを拾っていただいたお礼です。一つだけお答えします」

「あなたって、水玉模様のものをよく身に着けてるけど……、水玉が好きなの?」

「はい」

「それはどうして?」

「規則正しい、幸福の象徴だからです」

「幸福……」

「命を表す水のしずく、つまり水玉が無限に増えていくことは幸福の反復です。他人からしたら小さなことであっても、僕のように世の不条理を感じやすい人間には、些細な幸福が、かけがえのないことのように思われます。僕は小さな幸福が無限にくり返されることを願わずにはいられません。だから、自分の幸福を脅かすものとは正面から闘います」

  ――小さな幸福の反復。
  彼は今の職場にいることを幸福だと思ってくれているのだろうか。だから私の許可があれば、総務を守るためにも、ハッキングという犯罪ギリギリの行為をおかしてでも、漏洩事件の原因を暴いてやると言ってくれたのだろうか。
  胸がじんと熱くなった。

「斎木くん、あの……」

「二度目はありません。集中させてください」

  颯爽と歩いて行ってしまった。
  ぽつんと廊下に残された私は、伸ばしかけた手を額に当てる……。ま、まあいいわ。さすが私の見込んだ部下。行動が早いわね。
「どうしたんです? 斎木さん行っちゃいましたけど」

  総務のみんなが廊下にやって来た。急いで言い訳を考える。

「今ちょっと……上から緊急で連絡が入ったの。それで、今回の件はひとまず保留決定ですって。悪いけど、さっきの話はここだけにしておいて。じゃ、解散」

  えー、なんだよ、と総務のメンバーはぶつくさ言いつつも戻っていく。
  私は武下さんだけ呼び寄せると、囁いた。「メモリースティック持ってきなさい」
  受け取ったものをこっそりと、私のノートパソコンでスキャンした。
  三十分後、腕を組んだまま深く息を吐く……。ウイルス反応は「なし」と画面に出ていた。

「見て、誤解を解くためにも言っておくけど。武下さんのメモリースティック、感染してないわよ」

  縄井くんにも聞こえるように、わざと大きい声を出した。集中してシステムを操作する斎木くん以外のみんなにパソコンの画面を見せる。

「ネットカフェなんて、たいていアンチウイルスソフトを入れてるから、感染するわけないのよね。自宅のパソコンだって何か入れてるんでしょ?」

「はあ、いちおう……」

  ほっとしたように呟く武下さん。隣の席の縄井くんはこちらを見ようともせずに、眉を寄せて爪を噛んでいた。
  そして夕方の六時を過ぎた頃、総務に残っているのは斎木くんと私、武下さんの三人だけだった。斎木くんはたいてい、五時半きっちりに帰ってしまうのだが、今日はまだパソコンに向かってくれている。カチカチと乾いたマウスの音がするたびに、画面がくるくる変わっていくさまが、彼のめがねのレンズに映っている。いくつもの罠を乗り越え、静かにシステムの内部へ侵入しているのだろう。だが、堂々と言えないことをしているのは事実なので、見ているだけでも心臓に悪い。もし今、常務が来たらどう言い訳をすべきか――。
  いろいろと頭をめぐらせつつも、こちらは固唾をのんで見守るしかない。

「武下さん、もう帰りなさい」

「でも、斎木さんが作業されてますし。手伝うことがあれば……」

  漏洩事件の行方を気にしているのか、何か言いたそうな気配を見せる。

「今日はノー残業デーでしょ。他の人はもう帰ったんだからいいのよ。連帯責任みたいなことを気にしてたら、この先いつまでたっても帰れないわよ」

  すると、パソコンの電源を落とした斎木くんが机の上を片づけ始めた。
  ――五百人分のデータが洩れた原因は? 持ち去ったのは誰なのか?
  いろいろと尋ねたいのを必死にこらえながら、聞いた。

「終わったの? ……斎木くん」

「いえ」すっくと立ち上がる。

「夕食は七時に食べるので、もう帰ります」

  鞄を片手に携えて、すたすたと出て行ってしまった。
  武下さんがあっけにとられている。

「……すごいマイペース」

「あれが未来のサラリーマンの正しい姿……なのかもね」

  ぐったりと肩の力が抜けた私とは違い、武下さんは感心したのか、何度も頷いていた。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。
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