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2017.07.28

『ありのままの女』 #19 麻宮ゆり子

  ポン助がいなくなってから、二度目の土曜日がきた。
  ゴールデン街の店へ出る前に、私は母を訪ねることにした。
  三階建ての有料老人ホームはまるで高級マンションのような外観である。大きな庭の藤棚には、数え切れないほど花が咲き、甘い香りを放っている。
  個室で暮らす母は、部屋の窓辺に椅子を置いて座っていた。初夏の光を浴びた髪が輝くように白い。まるでレースのベールをかぶっているようだ。色白の母の頰はピンク色で、今日は体調がいいらしい。
  私は母の隣に椅子を置くと、そこへ腰かけた。もともとお嬢さん育ちだったという母が、元来の優しい口調で話しかけてくれる。

「あら……こんにちは。新しく入ったスタッフさん?」

「ええ。はじめまして、玲子さん」

  否定をすると混乱する。だから母の言葉はそのまま受け止めるようにしていた。

「素敵なお部屋ですね」

  私は室内を見回した。壁や家具は高級感のあるこげ茶色で統一されている。スタッフははつらつとして、暗い感じを与えない。変にキャリアの長い、慣れ合いのスタッフばかりが群れているホームよりずっといい。

  実は、ここに入所するまで、母と私は二度も「ハズレ」のホームを引いていた。そのたびに、母にはずいぶんと負担を強いてしまった。最終的にはこうして、料金は高いが、比較的いいホームに入ることができてよかったのだが……、引っ越しのたびに母の認知症の症状が進むのを見ているときは、本当につらかった。

「まあ、あなた。まだ若いのに、こんなに髪が白くなっちゃって」

  母は手を伸ばし、私の髪を撫でてくれる。小さい頃、私がずっとしてもらいたかったけど、してもらえなかったこと。――話をそのまま受け止めてもらうこと。褒めてもらうこと。慈しみを込め、触れてもらうこと……。

  お母さん、と喉元までせり上がってきた言葉を必死にこらえていると、母のほうが口を開けた。

「ねえ、あなた、闘子を知らない? 私の娘。二人いるのよ、闘子と魂子……。闘子は本当にいい子。あの子は小さい頃から私の話をよく聞いてくれていい子なの。それに比べて魂子はダメ、魂子は全然かわいくないの。でも闘子は本当にいい子なのよ」

  私は母の顔から目を離し、窓の外へ視線を移した。藤棚に紫色の花が満開である。

「ねえ玲子さん。藤の花と冬、どっちが好き?」

「そりゃあ藤の花よ。だってきれいだもの。いい香りもするし、蜂にも好かれているし」

  それなら藤子といつか改名しようか。母の許可を得る必要など、もうないだろう。子供ではないのだから、自分から名前の変更を申請することだってできる。
  私は母の両手を取った。骨の浮き上がった、しみのある小さな手の皮膚は脆く、触ると芯から冷たい。
  そっと温めるように、両手で軽く挟んであげた。



  晩はゴールデン街の店に出た。いつもポン助の入ったバスケットを持っていた右手が空いている。もの足りない感じが淋しくてたまらない。だからいつもよりたくさん料理を作り、両手の鞄がいっぱいになるほど、いろいろ用意してきてしまった。
  ポン助がいなくなって客が減るかと思っていたが、開店と同時に、五席のカウンターはなんとか埋まった。入れ替わりも含めると、男性客と女性客の割合は半々くらい。

「トーコさん、落ち込んでるんじゃないかと思って」

  そう言って、常連のロングヘアーの女の子は箸袋で髪をきゅっと後ろで一つに結んだ。

「あー今週も疲れたー。死にそうー。でも死なない。まずは食べる」

  他のお客さんはお酒を飲んでいるのに、彼女はもりもりアテを口に運んでいる。

「今日は白いご飯もあるけど、おにぎり食べる?」

「え、食べる食べる。急にどうして?」

「炊飯器ごと持って来たのよ」

  炊飯器のふたを開けた。店でスイッチを押したから、炊き立てのほかほかである。

「梅と鮭とたらこがあるけど、どれがいい?」

「鮭」

「瓶詰めの鮭だけど、いい?」

「全然いい。全然OK。トーコさんが目の前でにぎってくれるだけで美味しいもん」

  相変わらず情に飢えているようなことを言う。かわいそうになってしまい、油揚げの入ったお味噌汁も出してあげた。
  つられたのか、スーツ姿の男性や、結婚式の二次会帰りの着飾った客からも声がかかる。

「トーコさん、私も。梅とたらこ」

「僕も。中身はなしでいいです。塩むすび」

  次々と注文が入り、急に慌ただしくなった。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。
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