美ST ONLINE 無料会員登録 あなたの「美生活」に役立つ情報お届けします

新着
2017.08.04

『ありのままの女』 #20 麻宮ゆり子

  深夜を過ぎても週末の歓楽街の喧騒は収まる気配がない。外からはしきりに、大勢の人がはしゃぎ、騒ぐ声が洩れ聞こえてくる。
  ドアが細く開いて、そこからひゅうと風が入ってきた。誰かがポン助を連れて来てくれたのかと、つい期待してしまう。

「あれ、満員?」

  ドアの向こうの男性客が尋ねた。その足元に……、ポン助はいない。

「ごめんなさい、見ての通り。またお待ちしてます」

  ドアが閉まるとき、夜気を含んだ風が退いていく中に、猫の声が混じっていないか耳を澄ます。

「なにため息ついてんだよ、トーコさん。奢るから飲みなよ」

「……うん。ありがと」

  ご馳走してもらった水割りを飲んだ。右手に冷たいグラス、左手には……。しんとした気持ちでカウンターの板を撫でる。

「昨日ね、変な夢をみたの」

  私がそう言うと、ロングヘアーの子も他の客も私の方を見た。

「どんな夢?」

「……笑わない?」

「うん」

「あのね……」

  グラスを置くと、中の丸い氷が向きを変え、音を立てる。

「家に帰ったら部屋に猫がいるの。ドアは閉まっていたはずなのに、どこから入ったのかしらと思って近づいてみると……ポン助なの。それで『ポン、どこに行ってたの? 心配してたのよ』って言ったら、ポン助が言ったのよ。『ちょっと旅に出てたんだ』って」

  客がどっと笑った。酔っているので肩を上下させたり腹を抱えたり、みんな笑い方が大げさだ。

「猫が喋るなんて変な夢だね。しかも旅ってのがいい。猫のツアーだな」

「でしょう」

  と私が言うと、ロングヘアーの子が提案した。

「『ポン助は旅行中』って、これから表にさげといたら?」

「いいわね、それ」

  そんななぐさめを言い合いながら、夜はふけていった。
  ひとりだったらポン助のいない夜を越せなかったかもしれない。目の前のお客さんたち、それに総務のみんなにも、私は救われている。
  ありがとう。
  水滴が落ちるように、胸の内でぽつんとこぼれた。
  「よし次行くぞ、次」「三軒目はここにするか」といった会話がドアの向こう側から聞こえてくる。それに混じって、鈴が鳴ったような気がした。

  ――おい、これ本物?
  ――ぬいぐるみだろ?
  ――もふもふしてる。かわいー。
  ――うわ、動いた。本物じゃない? ざるに入ってるぞ。ざる猫だな。

  ドアを一枚隔てたすぐ向こう側で、そんな会話が交わされている。
  私は疲れで重くなった目をこすり、何度かまばたきをした。カウンターに座る酔客たちは何も気づいていないようだ。普通に会話を続けている。
  ちりんちりん、とまた鈴の音。慌てて私はカウンターから飛び出すと、座るお客さんの丸まった背中と、壁の狭い隙間に無理矢理手をこじ入れて進んだ。

「おいおい、急になんだあ?」

  酔いで口の回らない客が驚いている。

「うわ、トーコさん涙流してるよ。しかも黒い涙」

「どこ行くんだよ、そんな急いで。痛ッ、押すなってば」

「シッコー猶予かあ」

「私もオシッコ行きたあい。トーコさん、代わりに行っといて」

  まったく。酔っ払いはすぐシモの話をしたがるんだから。それよりカウンターに座った彼らは、ドアの向こうの、今の会話が聞こえなかったのだろうか?
  言い返したいことはいろいろあったが、私はあえて黙っていた。大きな声を出したくなかったからだ。
  ドアの前に立つと、ノブをつかみ、どきどきしながらそっと押し開ける。
  表のざるには……、何か毛むくじゃらの生きものが入っている。
  茶色と白のブチ模様。ぴくりと動く三角形の白い耳――。

「ポン助」

  声をかけたら消えてしまうのではないか……、そんな恐れを抱きながら囁くと、ゆっくり振り仰いだ彼は目を細め、にゃあと言った。
  その場にしゃがんで、また声をかける。

「ごめんね……。やっと旅から帰って来てくれたの?」

  にゃあ。
  目から流れるものを何度も手の甲でぬぐった。もう、子供の頃に引き戻されたのかってくらい、情けないほどあふれてくる、黒い涙が。
  手を伸ばすと、アスファルトには、あっという間に水玉模様ができあがった。小さな幸福が広がっていく。
  水滴を浴びた猫の耳が、パタパタ小さく羽ばたいた。

麻宮ゆり子 Yuriko Mamiya
1976年埼玉県生まれ。2003年小林ゆり名義にて第19回太宰治賞受賞。'13年『敬語で旅する四人の男』で第7回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『敬語で旅する四人の男』『仏像ぐるりの人びと』がある。

セレSTORY ここで買える kokode.jp

totop
Mail
Instagram
rss
美ST
美魔女
セレSTORY
STORY
光文社

Copyright© 2017 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.