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2017.08.18

『塗りたくった赤』 #1 くぼ田あずさ

  足下に屈んでいると、犬にでもなったような気になる。
  昔から犬は苦手だった。思いきりしっぽを振るくせに、好きな相手の顔色をうかがって、嫌われまいとする。その卑屈さとまっすぐさが窮屈だ。私も同じ窮屈さを有美子さんに強いているのではないか、と怖い。
  ソファに深く腰掛けた有美子さんを見上げる。目が合うと、有美子さんはいつも笑ってくれる。それがほとんど反射の笑顔だったとしてもうれしい。胸がぎゅっとなる。まっすぐ目を見られない。
  おそるおそる有美子さんの足に手を伸ばす。秋になったばかりのころからリビングの暖房はつけられているのに、有美子さんの足はいつも冷たかった。左足を持ち上げて、フットネイル用に持ってきたバスチェアに乗せる。

「あ、熱い」

  短く有美子さんがつぶやいた。私は慌てて、有美子さんの足から手を離した。

「えっ、すみません」

  お茶でもかかってしまったんだろうか。テーブルの上のカップが倒れた様子はない。それとも、どこかぶつけてしまったのだろうか。有美子さんの顔を見上げる私の表情には、卑屈さがにじんでいるに違いなかった。

「ごめん、違うの」

  有美子さんが、少し照れたみたいに笑っている。

「私、冷え性だから。さやかちゃんの手、いっつも熱いなあと思って」

  私は驚いて自分の頰に手を当ててみる。確かに熱い。なんだかそんなことも恥ずかしくなった。

「すみません、いやだったら言ってくださいね」

「きもちいいよ」

  それを聞いて、私は有美子さんの足に再び手を伸ばせる。右足も持ち上げて、そっとバスチェアの上に置いた。

「さやかちゃん、ほんと上手だよねえ」

  有美子さんの声に頭をなでられたような気分になる。有美子さんは自分の身体の方に指を折り曲げて、爪を眺めていた。
  このごろの有美子さんのお気に入りは、アディクションの007 S。ストーンをつけたりグラデーションにしたりしないで、潔くワンカラーで仕上げる。有美子さんは「仕事してても全然浮かなくていいよね」と喜んでいるけれど、私はもっと違う印象を持っている。鉄壁の色、女らしさをにじませる色。肌なじみがいいので、手がきれいに見える。色をのせて自分の気分を高めるより、手のきれいさを底上げしようとする感じがなんだか抜け目ない。派手なネイルが周りを威嚇するんだとしたら、これは周りをからめとろうとしているネイルだ。そういう隙のなさが有美子さんらしくて、好もしい。
  爪先を見つめる有美子さんが、満足そうな表情を浮かべている。私はほっと胸をなで下ろした。
  昨晩、有美子さんから「明日の夜、ネイル頼んでもいい?」と声をかけられた。もし有美子さんから声をかけられなければ、自分から「やりましょうか」と言うつもりだった。二つ返事で了承し、残業もそこそこにさっさと家に帰ってきた。
  有美子さんはなんでも器用にこなすのに、ネイルは苦手だった。出会って間もないころ、有美子さんが私のネイルを誉めてくれた。私はそれをずっと覚えている。素人だけど私がしてあげられることってそれくらいだし、いくらでもやってあげたい。今日は時間があったので、フットネイルもしてあげることにした。

「ムラもないし、すごい。ありがとうね」

  有美子さんはにこにこしながら、私の方を向く。半円になった目がかわいい。その横に出たいくつものしわすら、かわいいような気がしてしまう。

「いえいえ。こっちは何色にしましょっか」

  調子に乗って、有美子さんの足の甲にそっと触れた。有美子さんは、そうだなあとつぶやいて天井を見上げる。

  なんでもない顔をして、私は反則をしている。有美子さんと暮らし始めて一年が経った。その間ずっと反則を続けているうちに、罪悪感なんかどこかへ行ってしまった。嘘はひとつも言っていない。本当のことを言っていないだけで。
  たまに秘密がまだバレていないことに、ピリッとした痛みが走る。それがどこか心地いい。隠し持った秘密なんて、太陽の下で見たらきっと大したものじゃない。わかってはいるけれど、持っているという事実だけで、脳のどこかがしびれている。



「え」

  声が聞こえて振り返ると、風呂から上がったばかりのたけるが驚いた顔でこちらを見ていた。一瞬で血の気が引く。たけるは昔から勘だけは鋭かった。ぼんやりと開いた口が何かを言いかけているように思えてならない。

「あ、もう上がったの?」

  有美子さんは顔を上げ、たけるに話しかけた。

「はい。なにしてるんすか?」

「見て見て」有美子さんはたけるを呼び寄せ、手の甲を上にして爪を見せた。照明の下でまだ乾ききっていないポリッシュがつややかに光っていた。

「さやかちゃんに塗ってもらったの。きれいでしょ」

「あ、ほんとだ。きれい」

  たけるは自然と有美子さんの手をとった。私は喉元まで上がってくる悲鳴を飲み込み、焦って口を開く。

「フット、赤とかどうですか」

  知らないうちに声が強ばった。

「赤? 私持ってないよ」

「もしよければ、私が持っているやつで。ドラッグストアで買ったんですけど、いい感じなんです」

  たけるが入ってこれないように、私は早口にそう言った。慌ててネイルポリッシュの入ったトレーの中を漁る。ネイルホリックのRD400を、落っことしそうになりながら手にとって有美子さんに渡した。

「若くない?」小さなボトルに入った朱肉みたいな赤色を見て有美子さんは困ったように笑う。「手の爪とあまりにも色が違うけど、いいのかな?」

「そんなことないですよ」

  かみ合っていない返事をしながら、もっと口がうまければよかったのに、と思う。有美子さんは若いから大丈夫ですよ、と自然に伝えたい。もどかしさに唇を小さく動かしていると、たけるが横から口を挟んだ。

「かわいいんじゃないっすか」

「だから、それもたけるくんが若いからでしょ」

「そんなことないって」

  たけるの敬語が崩れ始めているのに気づく。有美子さんもたけるのフランクな態度を受け入れている。自分の弟と同居人が仲良くなってきているのは喜ぶべきことなのに、心がうまくついていかなかった。私の戸惑いなんか知らないで、たけるは間髪を容れずに続ける。

「若いんだから、いいんじゃないですか」

  私が言いたくてたまらない一言を、たけるはいとも簡単に口にする。

くぼ田あずさ Azusa Kubota
1987年埼玉県生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。医療事務、不動産会社勤務などを経て、2015年『ふざけろ』(『ふざけろよ』改題)で第9回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。

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