美ST ONLINE 無料会員登録 あなたの「美生活」に役立つ情報お届けします

新着
2017.08.25

『塗りたくった赤』 #2 くぼ田あずさ

「もう、若くないよ」

  爪がまだ乾ききっていないのに、有美子さんはたけるの肩をたたいた。

「そうしたら、これでお願いしようかな」

  有美子さんは私に赤いボトルを差し出した。派手でも靴の中だしわかんないよね、とひとりごちる有美子さんにうまく答えることが出来ない。キャップを開けると、シンナーのにおいが鼻をついた。

「そういえばさ、たけるくんは修士論文どうなったの?」

  有美子さんがたけるに聞く。たけるはあまりうまくいっていないことをむにゃむにゃと話した。たいして面白い話でもないのに、有美子さんは「そうなの?」と笑った。
  頭の上を通過する有美子さんとたけるの会話を聞きながら、私は黙々とハケを動かした。
  いつも有美子さんは何色にするか聞いても「無難な色にする」と答える。私はずっと有美子さんの爪を原色に塗ってみたかった。有美子さんの少し小さめの爪を真っ赤に、真っ青に、真っ黄色に、私の大好きだった色で塗りつぶしてみたかった。今やっと、念願が叶ったのに少しも嬉しくない。このもやもやした気分を言葉にしたら、しょうもなさすぎてきっと自分にがっかりしてしまうから、なるべく答えにたどり着かないようにしている。
  ふと視線に気づく。考えるまでもなく、私をじっと見つめているのはたけるだ。わかっていても、顔を上げてたけるの表情を確かめることが出来ない。たけるがどんな気持ちでいるかなんて、知りたくなかった。あいつは勝手に私の気持ちを見極めようとしている。たけるが私の反則に気づいていてもいなくても、どんな気持ちでいるかなんて絶対知りたくなかった。



  二週間前、数年ぶりにたけるから電話がかかってきた。午前に入っていた会議が終わってから不在着信があったのに気がついた。携帯電話の画面に表示されたたけるの名前を見て懐かしさを感じる一方で、どうせろくな用じゃないだろうとも思った。留守番電話は残されていない。それでも放っておくのも落ち着かなくて、三時少し前に遅めの昼食を買いに行くついでにかけ直してみた。

「あ、さやか?」

  たけるの声は記憶の中より少し低かった。

「うん、着信が残ってたから。なんかあったの?」

「あのさ……」

  そう言ったきり、たけるは口ごもる。あー、とか、うーんとか言いながらあとの言葉を続けられないでいる。

「どうしたの?」

  待ちきれずに私は続きを促した。たけるは遠慮がちに言う。

「家、泊めてくんない?」

「無理、人と住んでるから」聞き出したくせに、私は即答する。そして即答したはいいけれど、気になって聞いてしまう。「なんかあったの?」

  たけるは歯切れ悪くだらだらと話した。先週彼女と喧嘩してそのまま別れてしまった。同棲していたアパートの部屋は彼女の名義だったから、出ていかざるをえなかった。まだ学校もあるし就職先も決まっていないのに住むところがなくなってしまったという。今はネカフェやスーパー銭湯、たまに大学院の研究室に泊まり込んでなんとかしのいでいるらしい。どうせそんな事だと思っていたけれど、実際に耳にすると呆れた。

「相変わらずだね、ほんと」

  呆れたことを隠しもせず私がそう言うと、電話の向こうでたけるが笑ったのがわかった。

「そうなんだよ、やばいよね」

  まともに食事もしてないし、今日泊まるところもないとぽつぽつ話すたけるのことを放っておければ、と思う。

「泊めることは出来ないけど」そう前置きしつつ、思わず口にしている。「ご飯くらいなら食べさせてあげる」

  新宿の紀伊國屋書店の前で待ち合わせをして、電話を切った。
  七時に仕事を終え、会社を出た。駅へ向かいながら、有美子さんに電話をする。ここ四日くらい連続でネットフリックスで「ダウントン・アビー」を一緒に観ていたから、今日も一緒に観るつもりだった。きちんと約束をしていたわけではなかったけれど、一応断っておこうと思った。
  有美子さんはワンコールで電話に出た。

「すみません、今日帰るの遅くなりそうです」

「あーそうなの? 残業?」

「いや、弟に会うことになっちゃって……。いや、本当は会わなくてもいいんですけど」

「あれ、弟さんと仲悪いんじゃなかったっけ?」

「そうなんですけど、住むとこなくなっちゃったみたいなんですよ。そう言われるとつい、心配になっちゃって」

「えー、大変だね。なにかあったの?」

  ざっくりとしか知らない事情をさらにざっくり話すと有美子さんは「ええー」と大げさに驚いた。

「ほんと、クソですよね」

「……なんか困っちゃったねえ」

  有美子さんはちょっと引きながらも、丁寧に言葉を選んでいるようだった。出会って一年半ほどになるが、有美子さんが誰かを悪く言うのを聞いたことがない。悪口で団結したいわけではないけれど、少しくらい聞いてみたいと思ったりする。人の悪意にさらされても、理不尽な目にあっても、有美子さんは文句も言わず飄々としている。元彼の奥さんから、子供の写真がついた年賀状を送られても「かわいいね」と笑っている。本心を探ろうにも有美子さんの心はぐるりと高い城壁に囲まれていて、簡単に中に入れそうになかった。
  京王線のホームで電車を待ちながら、空しさに似た感情を持て余していた。有美子さんのことがもっと知りたい。有美子さんはなんでもそつなくこなしてしまう。一緒に住んでいるのに、まだ本心は見えなかった。有美子さんは私の前でいつも笑顔だし、「楽しい」と言ってくれる。これ以上求めようがないのもわかっていた。
  十一月に入ったばかりなのに、秋はすでにもう遠くに追いやられている。冬が始まる。

くぼ田あずさ Azusa Kubota
1987年埼玉県生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。医療事務、不動産会社勤務などを経て、2015年『ふざけろ』(『ふざけろよ』改題)で第9回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。

セレSTORY ここで買える kokode.jp

totop
Mail
Instagram
rss
美ST
美魔女
セレSTORY
STORY
光文社

Copyright© 2017 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.