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2017.12.08

『塗りたくった赤』 #16 くぼ田あずさ

  水曜日に半休をとって、午前中に千歳烏山の家に荷物を取りに戻った。雨が続いて、着替えが足りなくなったからだ。こんな言い訳じみたことをしないでさっさと帰ればよかったのに、ずるずると先延ばしにしたせいで余計に会いにくくなってしまった。荷物を取りに行ったときに顔を合わせて謝ってしまおうと思っていたけれど、結局自分の臆病さに負けて二人のいない時間に戻ることにした。
  新宿で京王線に乗り換えると、家に帰るだけなのに落ち着かなくて何度もきょろきょろしてしまう。のどがやけに渇いた。
  玄関のドアに、鍵はかかっていなかった。もしや、と思いドアを開けると、案の定たたきの上にはたけるの靴がある。水曜日の午前中はいつもいなかったから、今日も学校に行くものとばかり思っていた。まだ会いたくなかったけれど、わざわざそのために出直すのも億劫で、仕方なしに家に入る。「ただいま」と言うことが、できなかった。
  玄関で靴をそろえていると、背中から声をかけられる。

「おかえり」

  いるのはわかっていても、話しかけられると緊張した。たけるの声が少しふるえているような気がして、振り返る。たけるの頰が赤い。

「……いたんだ」

「ごめん」

「学校だと思ってた。行かなくていいの?」

「今日は自主休講。修論そろそろやばいから」

「大変だね」

  たけるはなにか言いたげに私を見る。その目つきが真剣だ。

「時間ある? お茶でも淹れよっか」

  たけるは遠慮がちに私に声をかけた。そのまま自分の部屋に逃げたくなったけれど、

「うん、お願い」

「紅茶でいいよね」

  たけるはキッチンへ向かった。私はダイニングのいすに腰掛け、たけるがお茶を淹れてくれるのを見ていた。修論で使っていたのか、ダイニングテーブルには付箋だらけの本が何冊も積まれている。
  たけるは食器棚からティーポットを出した。もうしっかりキッチンの中の配置を覚えている。たけるはここでの生活に慣れたんだな、と改めて思う。
  どこからか少しツンとするにおいがするのに気づいて、あたりを見回した。足下のゴミ箱の中に、赤く汚れたコットンが捨ててあるのが見える。においの正体がわかった。有美子さんが、マニキュアを除光液で落としたんだなと思った。自分のネイルをじっと見る。せっかくいつもの有美子さんと同じ色に塗ったのに、仕事で忙しくキーボードをたたいているうちに端の方からはげていた。有美子さんみたいに規則正しく生活して、誰に対しても柔らかく接してみたつもりだったけれど、有美子さんみたいには全然なれなかった。最後に見た鮮やかな赤色をした有美子さんの手はきれいだった。でも塗ってから結構時間があいたから、きっとはげていただろう。塗り直すチャンスを逃したことが、取り返しのつかないことのように思える。

「どうぞ」

  たけるはお茶を私に運んで、ぎこちなく向かいのいすに腰掛けた。

「ありがと」

  砂糖を入れていないのに、お茶はほのかに甘かった。たぶん、有美子さんがいつか買ってきたクスミティーだ。指摘する気にもなれず、向かい合ったまま無言でお茶を飲んだ。

「ほんとごめん」

  たけるがおもむろに口を開く。説明なんていらなかった。私は「やめてよ」と言ったきり、言葉を続けられない。たけるが私に謝ったところで、私の望むような展開にはならない。

「さやか、もう戻ってきなよ。俺出てくから」

  懇願するみたいにたけるが言う。たけるが私に歩み寄ろうとするたびに逃げ出したくなる。

「出て、どこ行くの? 彼女のとこ?」

「いや、それはもう別れた。一人で、新しい部屋に住む」

  たけるが気まずそうに答えた。目を逸らしたらダイニングテーブルの隅に、アディクションのリッチガールが転がっているのに気づく。そっと手に取って眺めた。

「ごめん、捨てとくよ」

  たけるはそう言って、私の手から取り上げようとする。その態度でわかった。この話にもう私はいない。二人だけの関係ができている。私はたけるの手を払いのけた。たけるは驚いた顔で私を見る。

「……有美子さんとはどうなってるの?」

  たけるは黙っていた。私はわざと下品な言い方で、訊き直す。

「ヤッたの?」

  訊きながら、胸が痛かった。答えなんて、本当はわかっている。たけるは何度も目を泳がせて、ゆっくり頷いた。

「やっぱりなあ……」

  必死で口で納得した振りをしたのに、知らないうちに涙が出てくる。私はやっぱりサバサバなんてしていない。有美子さんのこととなると、ひりひり痛んで泣けてきた。

「ごめん……」

  たけるの目も赤くなっている。みっともない言葉が自然と口をついて出る。

「たけるも、有美子さんが好きなんだ」

「違う」たけるが苦しそうに大きく首を振った。

「俺が好きなのは、有美子さんじゃなかった」

「じゃあなんで……」

「さやかの好きな人だったから」

  ものすごく遠回しに、たけるが私に伝えようとしているのがわかった。遠慮がちに私の目を見る。
  懸命に私の表情からなにかを読みとろうとしている。そして私が受け止めきれないのに気づいて、落胆した。手に取るようにわかった。
  どんなに慰めようと、たけるには届かない。私はたけるの気持ちを受け止められないからだ。きっと私たちはまたしばらく会わないだろう。
  私はネイルポリッシュのふたをあけ、前のネイルも落とさずに上から塗った。私の指先が鮮やかな赤に染まっていくのを、たけるは見ていた。でこぼこした汚い出来だが、私の爪はつややかに光っている。テーブルの上のネイルポリッシュは、もう私をにらんではいない。ネイルを塗りながら、本当の赤色におぼれてしまいそうだった。

「似合ってる?」

  私が訊くと、たけるは鼻声で「うん」と答えた。これからこのネイルポリッシュを見るとき、私とたけるはだれを思い出すんだろう、と思った。

くぼ田あずさ Azusa Kubota
1987年埼玉県生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。医療事務、不動産会社勤務などを経て、2015年『ふざけろ』(『ふざけろよ』改題)で第9回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。
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