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今でこそ「がんとともに生きる」「がんサバイバー」という言葉をよく聞くようになりましたが、30年ほど前まではがん=死というイメージが強い病気でした。女優・仁科亜季子さんは38歳で子宮頸がんを宣告されたのを含め計4箇所のがんが発覚。手術と治療を重ねながら今年の4月で70歳を迎えられます。自らを「幸福ながん患者」と呼び、病と共存してきたとは思えないほどの溌剌さと美しさを持ち、輝き続ける彼女。その理由を伺いました。
《プロフィール》
1953年4月3日、東京都生まれ。1972年に銀河ドラマ『白鳥の歌なんか聞こえない』(NHK)で女優デビュー。活動休止を経て、1999年に女優復帰。3月17日から公開中の映画『犬、回転して、逃げる』(シネ・リーブル池袋、シネ・リーブル梅田ほか全国順次公開)に出演。
いちばん最初にがんが発覚したのが38歳の時。子宮頸がんでした。下の娘が小学校に入学したので、ゴールデンウィーク中にひと休みしようということで、他のご家族と一緒に3泊4日で台湾においしいものを食べに行くことになったんです。
その旅行中に私だけ食べ物に当たってしまって、下痢と嘔吐がひどく、ホテルにこもって七転八倒。そんなことがあったので、帰国してからちょっと検診に行ってみようと思って娘の仁美を出産した総合病院の内科に行ったんです。すると先生が何気なく「そういえば仁美ちゃんも6歳になるけど、出産してからずっと婦人科検診もしていないし、1回してみたら」と言われて検査をしていただきました。そこで異常が見つかり、すぐに細胞診をすることになりました。
思い返せば、私は生理がもともと不順で、3カ月ない時もあればすごく早く来てしまうことも。不正出血みたいなものもありましたが、気にしていませんでした。当時は自分のことに構っている時間も余裕もなくて。6歳と8歳の子供を抱えている主婦で、元旦那様は仕事で忙しかったり地球の裏側にマグロを釣りに行ったりで(笑)家にいないことも多かったですし、お弟子さんも何人もいて、とにかくもう毎日バタバタバタバタ。朝のロケ弁を作らなきゃいけなかったり、時には家に80人もの方々を招いて打ち上げをやったり。当時住んでいたのは京都市内を一望できるような山の上だったので、子供の学校や習い事の送り迎えもしなければなりません。1日何回も4輪駆動車で山を下りたり上ったり。本当にいちばん忙しい時でした。だから多少の違和感はあったものの「早めのプレ更年期障害が始まったのかな」なんて、ふんわり思っていたくらいだったんです。
でも、1週間後に細胞診の結果を聞きに行ったら先生の額に玉のような汗がたくさん吹き出ていて、それまで見たこともないような悲痛な表情をされていました。
そういう時って不思議なんですよね。よくないことを言われるのではないかという恐怖よりも「これって映画とかテレビで見るシーンだ」みたいな、妙に冷めた感覚になるんです。私が「先生、どうぞ言ってください」と告知を促すと、先生は「あの、もっと詳しく調べますが、子宮頸がんです」とおっしゃって、ああ、がんなんだ、と私はその瞬間を冷静に受け止めました。当時がんに対する知識も全くないし、子宮頸がんと子宮体がんがあるのも知らなかったくらいで。「じゃあ、がんを取ってしまえばいいんでしょ?」と簡単に言ってしまうほど無知だったんです。
がんと言われたことよりもショックだったのは「長かったら6カ月入院です」と言われたこと。急に現実を感じて、子供たちはどうしよう? ということが頭をぐるぐるし始めました。
がん宣告は5月の半ば。子供たちは6月から夏服になり、その準備もあるし7月末からは夏休みに入ります。夏休みの宿題はどうしよう? 6歳と8歳なんて母親がいなかったら遊びほうけてしまう。どこかサマースクールに預けなきゃ、と考え、仲良くさせていただいていた谷村新司さんの奥様に相談して子供たちは苗場のサマースクールに入れることに。2人分の荷物に名前をつけなきゃいけないし、スクールの最終日に行われる盆踊りの準備で花笠も作らなきゃいけないし。自分の体のことよりも、入院中不在にしている間の準備のほうで頭がいっぱい。でもそれが逆によかったのかもしれません。嘆く時間も余裕もなく、目の前のやるべきことに集中できたことでネガティブになりすぎずに済んだ気がします。
ただ、告知を受けた直後は、多分2〜3時間くらいだと思うんですけど、自分の車の中で号泣していた記憶はあります。でも子供たちが心配するので母親がそんな顔をして家には帰れません。その数時間である程度は吹っ切れた気がします。6月5日に入院。妹がちょうど結婚することになっていたので、6月8日の夜から一泊で外泊許可をもらい東京に行ってとんぼ帰り。9日から病院生活が始まりました。
最初は抗がん剤からスタート。太ももの鼠蹊(そけい)部からカテーテルを通して動脈に直接抗がん剤を流し込む「動注」という方法です。抗がん剤が流し込まれる瞬間はお腹に熱湯をひっくり返されたような、熱いような痛いような激痛が走ります。奥歯をギィーッと噛みしめて心臓がバクバク。あまりに体に大きな変化が起きたので、麻酔科の先生が主治医の先生に思わず「やめますか?」と聞いちゃうほど。でも主治医は「続けて」と一言。その時ばかりは、先生のことを鬼のようだと思いましたよね(笑)。
でも1回目は抗がん剤が効かず、2回目を行って効きました。そうなると脱毛がすごいわけです。朝の日課が、枕についた毛をガムテープで取ること。その頃になるとシャワーを浴びていいですよと言われるんですが、シャワーのお湯の勢いで毛がごそっと抜けるんです。排水溝が詰まっちゃうので割り箸を持って髪の束を取る時はなんとも言えない気持ちでしたね。
その後、子宮と卵巣、リンパ節をとる手術をして入院生活は続きました。
白血球の数値が下がってしまい、子供たちは雑菌が多いからと面会謝絶だったんですが、数値が上昇してからは面会が許されるように。子供たちにはわかるんでしょうか。髪の毛が抜けた私の頭を「一休さんみたい」「マルコメみそだね」と言いながら「つるんつるんだ〜」と無邪気に撫でてくれるんです。ちょっと心がじんとしました。
それでもやはり髪が全部抜けてパニックにはなりました。絶対生えてくるとは思いつつ、不安で不安で。幼馴染みのピーターさんにお電話してカツラを送ってもらったんです。華やかなピーターさんのことだから舞台で使うような、赤とか黄色とか派手なものだったらどうしようとドキドキしましたが、送られてきたのは日常に馴染めるようなごく普通のショートのウィッグで、安心したのを覚えています(笑)。
子宮頸がんの入院時は結婚をしていましたから、マスコミや世間の皆様から関心を持たれている渦中でした。
普通だったら、リハビリとして病院内を歩いたりしなければならないのですが、病室を出てすぐの待合室などに記者の方がいたりするんです。今と違ってコンプライアンスや取材マナー、病院のセキュリティなんてあまり重要視されていない時代でしたから、隣の病室に入院している患者さんもマスコミにつかまっていろいろ話を聞かれたりして申し訳なかったですね。私は個室にカンヅメで歩くためのリハビリができず、退院して家に帰っても2階に上がるのに2〜3回休まなきゃいけないほど足の筋肉が衰えてフニャフニャになって。ふくらはぎはまるでマシュマロみたいでした。
45歳で離婚して、その後もともとあった良性の腫瘍が悪性化していたのが発覚。最初はその腫瘍だけとればいいと手術することになったんですが、手術中に顕微鏡で見たら細胞分裂が激しくて悪性に変わっていたため、胃の3分の1以上と膵臓を取ることに。
子宮頸がんの時は子宮や卵巣、リンパ節も取ったので、夕方になると足が象のような太さになってだるいというリンパ浮腫の後遺症がひどかったのですが、胃がんの時はとにかく食べられないのが苦しかった。手術後、入院中は高カロリーの点滴をコンピューター管理で24時間プチプチプチと入れるんです。その時は全然体重は減らないんですが、その後、食事が許可されても食べ物がすんなり入っていきません。通過障害というのでしょうか、食道に食べ物が入ってきた時に蠕動(せんどう)運動ができなくて途中で引っかかるんです。例えば、みかんの房を持ってチューチューやってもそれが上手く喉を通過しないし、お寿司も1貫が食べられない。体重が一気に減って、当時37キロくらいまでになりました。
胃の手術の後47歳で女優復帰し、しばらくは落ち着いていたのですが、今度は55歳の時に小腸にがんが見つかりました。当時、腸閉塞を何回も繰り返していて高熱がいきなり出たので、主治医がもう一回きちんと調べたほうがいいと、小腸のレントゲンを撮ることに。バリウムを飲みながら長時間検査をして、やっと異常があるであろう患部が分かったのが盲腸の先端あたり。はっきりと特定できないけれど、とりあえず一度、内視鏡で探ってみようと見てみたら、どうやら子宮頸がんのときの手術の後遺症で癒着がひどく、結局開腹手術になりました。でもその患部は先生に言わせると比較的取りやすかったらしいです。
そして65歳の時には大腸癌が発覚。最初は内視鏡手術の予定でしたが、取り切れないので急遽、開腹手術に切り替えて大腸を20センチ切って取りました。
麻酔が覚めた時、あっという間に手術が終わったように感じたので「駄目だったからすぐ閉じちゃったのかな」と思っていたら、子供たちが「何言ってんだ、8時間以上かかったんだよ」と怒っていたのを覚えています。癒着がひどすぎて、まるで密林のジャングルを探り探りでコンマ0ミリ単位で剥がす、大きな手術だったようです。
計4回がんが見つかり、毎回手術したり今も後遺症がありますが、私はがんに関しては幸せな患者だったと思います。最初は京大(京都大学医学部附属病院)、その次が順天堂(順天堂大学医学部附属順天堂医院)、その後は北里大学研究所病院。それぞれ早いタイミングで良い先生に見つけていただき、最新の治療法で対処していただけたのは幸運でした。
撮影/来家祐介(aosora) ヘア・メーク/Hanjee(SIGNO) 取材/柏崎恵理 編集/永見 理
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