PEOPLE
デビュー作のテレビドラマ「ムー」で樹木希林さんと共演。そのコンビで出演したCMでの 「それなりに写ります」が流行語となり、一躍スターになった女優の岸本加世子さん。その後も美空ひばりさんや北野 武さんら大物から愛され、「人に守られ、人に恵まれた人生でした」と、これまでを振り返ります。
着物のためにずっと長かった髪を『美ST』の撮影を機にショートに。水色のワンピースもスタイリストさんが特別に作ってくださいました。「身長が低いから、ぴったり合う服になかなか出合えないんです」とおっしゃる女優の岸本加世子さん。ドラマ「ムー」で演じたお手伝いさんの“かよちゃん”は大人になっても可愛いままでした。衣装制作/鈴木健一
《Profile》
1960年静岡県出身。’77年にドラマ「ムー」でデビュー。映画『男はつらいよ 寅次郎紙風船』『Dolls』、ドラマ「ニューヨーク恋物語」「あ・うん」など多数の作品で活躍。映画『HANA-BI』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、『菊次郎の夏』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞、’16年ドラマ「居酒屋もへじ」で橋田賞など多数受賞。近年では映画『鈴木家の嘘』ドラマ「あのときキスしておけば」「星降る夜に」など。
高校1年生のとき、スカウトされてこの世界に入りました。その頃、私は勉強もしないで遊んでばかり。芸能界にはまったく興味がなかったのですが、事務所の方に「この世界は、真剣に頑張れば、普通ではできない親孝行ができますよ」と言われ、さんざん母に心配をかけていたこともあり、その言葉にぐらっときました。
やってみてダメだったらすぐ帰ろうという軽い気持ちで上京して、1作目がTBSドラマ「ムー」。住み込みのお手伝いさん役でした。演出家は久世光彦さんで、共演者が郷ひろみさん、伊東四朗さん、渡辺美佐子さんなど超ベテランばかり。養成期間もなく、ド素人がいきなりそこに突っ込まれたんです。しかも、久世さんは鬼軍曹のように怖くて。
撮影初日の前日に緊張しすぎて、当日現場の入り時間が8時の予定が、起きたら11時。当時のマネージャーが偽の診断書を共演者の方全員に配って謝罪すると、希林さんに「はい。寝坊したんでしょ?」ってあっさり見破られました。
その後、希林さんには「どこかで見たお芝居しないで」と鍛えていただきました。とにかく現場について行くのに必死。これが勉強だなどと思う余裕もなかったですね。3年後に富士フイルムのCMに一緒に出演し、「それなりに写ります」は流行語に。
生涯頑張っていくんだとか、こんな女優になりたいというような気概は一切なかったです。でも、実家の母が、切手サイズほど小さな私の新聞記事を嬉しそうに切り抜いてスクラップしているのを見て、「頑張ろう」と思えました。10代20代は忙しすぎて、置かれている立場にくらいついて行くしかなかったです。
美空ひばりさんとの出会いは、亡くなられる3年前、26歳のときでした。当時「すばらしき仲間」というトーク番組があり、女優の奈良岡朋子さん、太地喜和子さんと出演。収録後に太地さんが「これから飲むわよ」とおっしゃって、奈良岡さんのご自宅に伺ったんです。そのとき、サイドボードにひばりさんの千社札を貼った焼酎があり、ひばりさんファンの太地さんのお願いもあって奈良岡さんがひばりさんに電話をされたんです。私にも順番が回ってきて、私のことなんてご存じないだろうと、「はじめまして」とご挨拶をすると、「知ってるわよ」とおっしゃったのが最初でした。その後、奈良岡さんとひばりさんの公演に伺い、楽屋で初めてお会いしました。
以降、ひばりさんから毎日お電話をいただいたり、突然家までいらっしゃったり。「姉ちゃんて言わないと、返事しないよ」っておっしゃるんですが、言えるわけないですよね。最初は「ね、ね、ね、姉ちゃん」と緊張しながら呼ばせてもらっていました。ひばりさんから胸襟を開いてくださって、突然「ディズニーランドに行くわよ」と朝から電話がかかってきたり、お正月には温泉にも連れて行っていただきました。
ひばりさんのお宅の寝室で、2人でテレビを観ていると、ひばりさんが「好き」とおっしゃる方は、歌や芝居の上手い下手ではなく、がむしゃらに頑張っているのが伝わる方たちばかりでした。私は頑張り屋でもなかったけれど、なぜか可愛がっていただきましたね。
当時ひばりさんは闘病中でしたが、常々「今日の我に明日は勝つ」とおっしゃって、「病気に負けてたまるか、絶対に歌う」と、病いと闘う背中を間近で見せていただき、その姿は生涯忘れられません。
ひばりさんが旅立たれた後に「美空ひばり物語」のひばり役のオファーをいただきました。ひばりさんの死を日本列島みんなが悲しんでいるときに、私に演じられるわけがないと、息子の和也さんにお伝えしましたが、「おふくろが喜ぶからやってくれ」と言うのです。清水の舞台から飛び降りる覚悟で引き受けました。暖簾や着物など、実際にお使いになっていたものをすべてお借りして、ひばりさんに包まれながら演じました。演じ終えた後は、「姉ちゃんごめんね。でも頑張った」という気持ちでいっぱいでした。
そして、ドラマ「ニューヨーク恋物語」が放送された翌年に、母を亡くしました。ひばりさんを失った半年後です。すべてのモチベーションを失い、何のために女優をやっているのかわからなくなり、人に会うのも嫌で、精神的にどん底の状態でした。同居していた父は仕事、弟は学校で、昼間はひとりの私を心配してくれた友人たちが、家中の刃物を隠していたと、後になって知りました。みんなに迷惑をかけた自分が情けなくなり、私はいったい何をやっていたのかと。弱音を吐かなかったひばりさんを演じたことを機に、少しずつ乗り越えていきました。
6歳の時に両親が離婚し、実父とは生き別れ、その後母は再婚。養父が優しい人で、母が亡くなった今も一緒に住んでいます。実父の記憶はほぼないですが、55歳のときに49年ぶりに実父から「再婚した妻が亡くなり、ひとりになった」と突然連絡が。「どういう状態なの?」と見に行くと、要介護3でとてもひとりでは暮らせない状況。血縁者は私だけなので、引き取って、近くのアパートに住まわせました。それが介護の始まりでした。
数年前に実父を看取ったと同時に、今度は養父が3度の脳梗塞から高次脳機能障害になり、要介護4に。今も介護の真っただ中です。ヘルパーさんやデイサービスを最大限利用しながら、今はすべて父親のサイクルに合わせた生活。げっそりやせているのに、転んだら重くて起こせなくて、自宅での介護は本当に大変。
実は、実父をアパートにひとりで置いておけない状況になったとき、自宅には養父がいるから引き取れず、何件か見て良さそうな有料老人ホームに入居させました。数日後に面会に行くと、表情がなく、声をかけても反応がない。誰も知らないところに入った精神的ショックと、放置されていた寂しさを感じました。その罪悪感があり、養父を施設に入れる気になりませんでした。
もちろんストレスは溜まりますから私自身が切羽詰まらないように、枕やクッションを蹴飛ばしたりして(笑)、そのつどストレスを解消しています。
もともとワインが好きで、山梨の農家さんから自家用ワインを瓶に詰めて送っていただき、毎晩飲んでいたんです。でも、トレーナーの宮田さんから「果糖は太ります」と言われ、今はハイボールに。入浴後にパジャマに着替え、歯磨きも終わって、テレビを観ながらお酒を飲む時間は本当に至福。悩みもありますが、お酒を飲んでひと晩寝たら忘れちゃう。笑って3日も泣いて3日も同じ3日なら、明るく前向きに。ぱっと忘れるに尽きますね。
理想の女性は母ですが、憧れの岸 惠子さん、太地喜和子さん、八千草 薫さん、浅丘ルリ子さん……みなさん肝が据わって男勝り。でもどこか少女のように可愛くて慈しみ深いんです。その究極が美空ひばりさん。ままならない現実があっても負けずに、明るく生きることを教わり、私もそうありたいと思います。
希林さんが常々「シミ、シワができたらラッキーって思いなさい。役者として一つ良いものができたんだから、一生懸命消そうと抗うんじゃないよ」とおっしゃっていました。役者にとっては全部財産です。今の自分を受け入れていく凄みを教わったと60代になって感じます。だから私は今も、もちろんこれからもすべて天然です(笑)。
よく「女優として、どんな役をやりたいですか?」と聞かれますが、こんな役がやりたい、あんな役はできない、ということはなくて、いつも精一杯演じたいと思っています。役も作品もご縁があってこそ。これからも自分らしく生きていきたいですね。
母は重度の身体障がい者でした。昔は福祉の観点がなく、いじめや差別を受けても母は絶対に負けてたまるかの精神の人でした。現実が厳しくても楽観主義で、何があっても大丈夫、と過ごせば道は開けて行くものです。
2023年『美ST』7月号掲載
撮影/中村和孝 ヘア・メーク/佐々木恵枝 スタイリスト/前田みのる 取材・文/安田真里 編集/和田紀子
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