PEOPLE
10代の頃から芸能活動を続ける酒井若菜さん。役名もセリフもないエキストラから始まり、グラビアアイドルとして一世を風靡、その後かねてからの希望だった女優へ。グラビアアイドルから女優の道を切り拓いたパイオニア的存在の酒井さんですが、その過程では幾度もの壁や葛藤が。当時の想いを、今回初めて語ってくれました。
《プロフィール》
1980年、栃木県生まれ。女優、作家。代表作としては『木更津キャッツアイ』(’02)、『マンハッタンラブストーリー』(’03)など。他にも『Mother』(’10)、『マッサン』(’14)、『透明なゆりかご』(’18)、『ホメられたい僕の妄想ごはん』(’21)、『シジュウカラ』、『絶メシロードseason2』、『覆面D』(’22)など数々の話題作に出演。またWEBマガジン『&Q』を毎週日曜日に配信中。
幼い頃から芸能界への憧れはあったんですが、最初から女優だけを目指していたわけではありません。ジャンル関係なく、あくまで芸能人になりたいというのが夢で(笑)。でも、しいて言えばアイドルに憧れていたかな。Winkさんや、工藤静香さんとか。テレビで見ていた歌番組が、もしかしたら芸能界への憧れの原風景だったのかもしれません。今まで歌やダンスに挑戦してみたこともありますが、経験を積むごとに才能がないことに気づいて。十代の半ばくらいに、明確に女優になりたいと意識するようになりました。
私が芸能界で仕事をするようになったきっかけは、芸能事務所のオーディション。事務所に所属するまで、あらゆるオーディションを受けました。
最初の事務所に入ったのは、15歳の時。家族の反応ですか?実は、オーディションをひたすら受けていた頃はまだ何も家族に言っていなくて。事務所に入るのにお金が必要で、それを用立ててもらうために初めて言いました。反応は、「そうなんだ」ってあっさりしていましたね(笑)。
事務所に所属後は、なんでもやるつもりでまたオーディションを受けまくる日々。でも、箸にも棒にも引っかかりませんでした。エキストラばかりで、もちろん役名もセリフもなし。エキストラが決まるたびに悔しくて、悔しくて。そんな時だったんです、オーディションでグラビアの仕事が決まったのは。
グラビアアイドルは、私にとっては最も遠いジャンルの仕事でした。性格的に、向いていないんじゃないかなって。もちろん、「やらない」という選択肢もありました。だけど女優になるために、とにかくチャンスがあればしがみつきたかった。その一心でしたね。
そんな私がグラビアアイドルをするにあたって、決めたことが一つだけあるんです。それは、いっさい意見を出さないということ。私からは何のアイディアも出さない。自発的になるとファッション性やおしゃれさを追及しがちですが、もう何も。「男性が見たいものを撮っていただく」というスタンスで挑みました。男の人の心理として「覗いちゃっていいのかな?」みたいなものが好きなんじゃないかなと思ったからです。当時、好戦的で攻めのグラビアが多かったなか、私の控えめな撮影スタイルは異色で、だからこそ功を奏したのかなぁと思います。
初めて女優として役名とセリフをもらった当時はがむしゃらでした。いちいち感動なんかしていられないくらい、前しか見ていなかったんです。何でそんなにがむしゃらだったかと言うと、グラビアアイドルから女優になれる道を早く切り拓きたかったから。後輩の子達が歩みやすいようにしたいという想いがありました。
当時、グラビアアイドルって2年が寿命って言われていたんですよ。だから女優になりたいなら、グラビアをしながらバラエティ番組に出て、タレントとしての地盤を整えてから女優になるのがスタンダードだったんです。でもそれって、すごく遠回りだと思いませんか?何より私、バラエティ番組でもグラビアと同じように自分から前へ前へと出ることができなかった。完全に向いていない(笑)。だからバラエティを経なくても女優になれる道を模索しました。スタンダードから外れたからこそ、女優として身を立てることに尚更がむしゃらになったのかもしれませんね。
のちに小池栄子ちゃんや他の同世代の子たちからも「グラビア出身で女優になる道を最初に切り拓いたのは若菜ちゃんだよね」と言ってもらえて嬉しかったです。そして、後輩の道しるべとなれたのは感慨深いですね。
今は女優業をしながら、文筆業もしています。文章は10代の頃からブログなどで書いていました。子供の頃から文章を書くことは日常に溶け込んでいて、読書感想文などの作文コンクールでは毎回入賞していました。もともと、本や絵本を読むのも大好き。私が学生の時は、図書室で本を借りる時は図書カードに名前を書いていたんですが、あまりにもたくさんの本を借りていたので、学校の図書室にある本は、当時は私の名前で溢れていたと思います。家でも本は身近で、誕生日やクリスマスにはいつも本をねだっていました。普段もおもちゃはあまり買ってもらえませんでしたが、本なら何冊でも買ってくれる家でした。
私が24~25歳の頃は、女優がものを書くことについて、同業者からも出版業界からもネガティブに受け取られる風潮がありました。ひとつのことを極めることが美徳とされていたように思います。でもそんなことはない、両立を目指しました。グラビアの仕事を経て女優になれたという経験があったから、余計にそう思えたのかもしれません。
友人や後輩にも言っていますが、履ける草鞋はいくらでも履けばいい。その日の洋服に合わせて靴を変えるみたいに、履き分けながら、自分にとって心地良く生きていけばいい。今は副業だって盛んに推奨されていますよね。ひとつのことに縛られて生きる必要なんかない。特にこれからは、個人の可能性が広がっていく時代。何足も草鞋を履いて、ごきげんに歩いていきたいなと思っています。
40代になってから、つまりここ2年でようやく日焼け対策をスタートしました。「遅い!」と言われるかもしれませんが…。というのも、私は大の日焼け止め嫌いだったんです。グラビアをやっていた頃の20年前の日焼け止めって、ベタつくうえに肌がきしむものばかりで。それを塗って海に入って砂浜で寝転がって…もうその気持ち悪さったら、なかったですね。だから「女優になったら二度と日焼け止めなんか塗るもんか!」って思っていたんですが(笑)、さすがにこの年齢で日焼け止めを塗らないのは先のことを考えると恐怖だなと思って、ようやく。
もともとデパートの化粧品売り場や原宿のアットコスメに多い時は週2回、最低でも月2回はパトロールに行くくらいのコスメ好き。ふと見つけたカネボウのヴェイル オブ デイの日焼け止めを試しに使ってみたら、これが大正解!美容液みたいに心地良くて、日焼け止めの認識がガラッと変わりましたね。
日焼け対策の一環で生活に取り入れたのがもう一つ。サンバリア100の日傘です。熱を通さないのがお気に入り。ここ数年の夏の暑さって、ちょっと異常じゃないですか。日焼けはもちろん、暑さ対策でもありますね。
《衣装クレジット》
シースルートップス¥11,000(Fumiku)ワンピース¥58,300(RYU KAGA)ジレ¥37,400(RURI W.)アクセサリー、靴/スタイリスト私物
《お問い合わせ先》
Fumiku info@fumiku.tokyo)
RYU KAGA ☎090-2988-0272
RURI W. contact@ruriw.com
撮影/来家祐介〈aosora〉 ヘア・メーク/森下奈央子 スタイリスト/伊藤彩香 取材/キッカワ皆樹 編集/永見 理
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2024年12月16日(月)23:59まで
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