PEOPLE
東大在学中にはミス東大としてファッション誌に取り上げられ、大蔵省(現・財務省)に入省してからは、女性初のポストを歴任し、ガラスの天井を突き破ってきた片山さつきさん。46歳で政界に転身し、アンチエイジング・人生100年時代が政治ポリシーのひとつでもあるという片山さんに、美容から人生のお話までたっぷりとうかがいました。
議員会館の自室には、震災時に活躍した強化段ボール製の棚が。震災復興の象徴として、段ボール製ランボルギーニ(ダンボルギーニ)を制作した宮城県石巻市の企業に作ってもらったそう。「3枚重ねで驚愕の強さです」
40代は輝く楽しい時代でした。前半は官僚として、後半は政治家として活躍できたから、悔いはないです。
東大法学部卒業後は大蔵省で税務署長、主計局主計官などを歴任し、23年間勤めました。その間、何度も選挙に誘われていたのですが、まだ自分が役所でやれる事があるとお断りしていました。私が女性のパイオニアとして、ある所まで道を開かなきゃと思っていたんです。しかし、次第に世の中が「政治主導」になり、政策を通すなら政治に行くしかないのかなと感じ始めていた矢先、郵政民営化解散で小泉純一郎元総理からお誘いを受けました。まさに機が熟して、46歳で衆議院議員総選挙に出馬。突然の選挙なのに火事場のバカ力を出せたのは、財務省時代に相当ハードな仕事をこなし、体力気力ともにやり切れるという自信があったからですね。でも想像以上に大変で、振り返るとよくやったと思います。静岡から出馬し、いわゆる地元に縁のない落下傘候補だから誰からも手伝ってもらえず、真夏の炎天下の浜松を街頭演説をしてひたすらぐるぐる回り、必死で走りぬいたら当選しました。経済産業大臣政務官に就任し、翌年は広報本部長代理兼広報局の任務を与えられました。ただ、その後、あまりにも何もかもがうまくいったので、知らず知らずのうちに本来踏むべきプロセスを飛ばして、地元を疎かに。1年経って地元に戻ると、相手が地固めをしていて、私の後援会作りは大変でした。同時に自民党の人気も落ち、政権交代が世の中のスローガンになっていきました。’09年の選挙では、内心、何をやっても駄目だなと感じたけれど、小泉チルドレンの筆頭として選ばれた以上、その役割を果たそうと頑張ったし、戦いました。けれど落選。50歳でした。自分も苦しかったけど、協力してくださったみなさんをどうしよう?と本当に悩みました。各々行先が決まったときは心底ほっとしましたね。私自身はその年の暮れ、浜松駅前で「さつきカード」と書いた後援会会員証を1枚千円で売りました。そうでもしないとやる気をわかってもらえないと必死だったんです。結果、27枚も買っていただき、「あっイケるな」と思いました。
実は選挙の終盤に小泉元総理が応援に来てくださったんです。でもどうやっても勝てないくらいの差があって。すると、小泉さんが私の後援会長に「片山さんは今まで見た議員の中でいちばんできる人。だから見捨てないでくれ」とおっしゃったと言うのです。それを後から聞いたときは胸がいっぱいになって、ほんとに有難かったですね。絶対に政治に戻ると決意して、結果翌年の選挙で復帰しました。
激動だった40代。人生の過渡期でしたが、今あることの基礎はすべて40代で築き上げたものだと思います。人生は照る日も曇る日もあって、何もかもうまくいくことは絶対にないんです。それを実体験から学びました。
大蔵省に入省して以来、ずっと結婚したい気持ちはありました。当時の大蔵省は特殊で、出世する代わりに私生活はないのが当たり前の世界。しかも女性で、まともに結婚生活ができるのかなと思い、当時の適齢期ギリギリの27歳で見合い結婚をしたら大失敗。それまでは、結構モテたし、男女関係で不幸なことってなかったんですよ(笑)。それが結婚直後から不幸の連続。半年で家を出て、29歳でようやく離婚。恋愛結婚なら破れた後に良い思い出も残るでしょうけど、私の場合は悪い思い出しか残らない結婚でした。再婚は難しいだろうと諦めていた頃、今の夫と再婚して、やっと私も人並みに自然に恋愛結婚できました(笑)。31歳でした。そのときから人生が始まった感じ。今振り返ってもいちばん楽しかったのは新婚時代。今でも夫婦仲は良くて、桂由美先生に結婚30年の真珠婚カップルに選んでいただき、2月にショーに出たのが良い記念になりました。
子どもも欲しかったのですが、自然にはできなくて、不妊治療を始めたのが38歳。何度も体外受精をしましたが、着床しても流れてしまう。37歳以降は卵子は老化することを初めて知りました。今は当たり前の事実ですが、20年以上前に認識している人は少なかったですね。それでも、42歳まで頑張って、残された手段は代理出産しかないと宣告されて夫婦で話し合い、保守的かもしれないけれど、やめることにしたのです。涙が涸れ果てるまで泣いて、子どものいる人生を諦めました。その代わり、子どもを残せない分、ますます仕事をして、世のため人のためになる法律や制度を残そうと決意。その気持ちは今も変わりません。
昨年『美ST』の美魔女コンテストにうかがったら、皆さん40代50代でも「ミスワールド」レベルの美しい人揃い。とても無理だ、帰って寝ようと思いました(笑)。やっぱり人は見かけが8割というのが持論です。内面が変わると外見も変わるし、特に賢い人は眼光が鋭くて、素敵でしょ。成績がいいというより生きるのに賢い人ですね。そうなるには必死で生きることだと思うんです。私も必死に生きてきました。これだけの経験を積んできた人はほかにはいない。私じゃなきゃ誰がやる? 自分がやりたいだけでなく、私でなければできないと客観的にも思われるよう、いつも努力してきました。何もかもできなくていい。何かができればいいんです。
唯一褒められるのが裏表のない性格。裏でねちねち言うことは絶対にしないし、加えて前向きでいるからこそ、運もやってくるのだと自負しています。私は何より日本が好き。日本人であることに誇りを持って、日本がもっとよくなるようサバイバルしてほしい、その信念が私を衝き動かす源です。
25年以上前に国有林のヒバの間伐材で作ってもらったネームプレート。財務省、衆議院、参議院……と職場が変わっても、これだけは持ち歩いています。
令和元年5月1日に行われた「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」に、当時の内閣唯一の女性閣僚として参列。憲政史上初めて三種の神器継承の場に立ち会った女性に。
今の日本は、ほとんどの方がそう悪い人生にはならないような国の体制にはなっています。でも、それには自分が健康で自分のペースを守れていることが大切。偉い人でも何もかもできる人はいないし、自然体で健康で自分の居場所があることが大切だと思います。
●Profile
’59年埼玉県生まれ。’82年東京大学法学部卒業後、大蔵省(現・財務省)入省。入省後23年間でG7サミット政府代表団員 金融機関監督管理職、主計局主計官など女性初のポストを歴任。’05年衆議院議員総選挙で初当選。’10年参議院議員選挙全国比例区にて自民党トップ当選。’18年内閣府特命担当大臣として地方創生・規制改革・女性活躍推進担当として各種政策に取り組む。現在は自民党総務会長代理。スーパーシティ構想の発案者。
2020年『美ST』11月号掲載
撮影/興村憲彦 ヘアメーク/猪狩友介(スリーピース) 取材/安田真里 構成/和田紀子
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2024年12月16日(月)23:59まで
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