PEOPLE
酒井美紀さんといえばドラマ『白線流し』を思い浮かべる人は多いはず。1996年に連続ドラマとして反響を呼んだ同作は、その後2005年までに5回のスペシャルドラマも放送。長く愛される作品となりました。一方で酒井さん自身は、忙しない日々のなかで「このまま走り続けること」への戸惑いを覚えていたといいます。そして決断したのが20代半ばでのニューヨーク留学でしたーー。
《PROFILE》
1978年2月21日生まれ。静岡県出身。1995年公開の映画『Love Letter』で俳優デビュー。日本アカデミー賞新人俳優賞に輝き、注目を集める。1996年には連続ドラマ『白線流し』の主人公・七倉園子を演じ、多くのファンを獲得。私生活では2008年結婚、2010年長男出産。俳優業と並行して国際NGOワールド・ビジョン・ジャパンの親善大使や、不二家の社外取締役を務めるなど多方面で活躍。現在はハーマイオニー・グレンジャー役を務める舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』がTBS赤坂ACTシアターでロングラン公演中。Instagram:https://www.instagram.com/mikisakai.mua/。
俳優デビュー作の『Love Letter』からほどなくして、ドラマ『白線流し』(フジテレビ)に出演させていただきました。17歳のときです。
主演だと聞いたときには心底驚きました。ものすごいプレッシャーを感じましたが、学園モノで同世代の俳優さんが周りにたくさんいたことでずいぶんと救われましたし、スタッフさんもみんな優しい方々ばかりでした。
当時は学校に2つ通っているような感覚だったんです。月に20日間くらいはドラマの舞台である長野県松本市でロケをして、残りの日は本当の学校へ、という感じ。ロケは合宿のようでもありましたね。
そのときは大変なことももちろんあったでしょうが、今では楽しかったことばかりを思い出すんです。
今でも『白線流し』の共演者やスタッフさんたちとは交流があります。当時は携帯電話すらあまり一般的ではありませんでしたが、今ではSNSがありますから連絡が取りやすくなりました。いい時代になったなぁと思っています。
『白線流し』の劇中で、私が演じた七倉園子は白線(セーラー服のスカーフ)に「勇気のない自分」と書いて川に流しましたが、それは彼女の〝流したいこと〟でありつつ、私が流したいことでもありました。演じながら思いが完全にリンクしていたんです。
当時の私は演技について自信を持てていなかったんです。「こうしてみようかな」と思うことはあっても、次の瞬間には「でもそうすると演出家さんに何か言われるかな?」「私の芝居、間違ってる?」と考えてしまって。演技の幅を自分で狭めてしまったり四角四面な思考に陥って、勇気を持ってチャレンジをすることがなかなかできませんでした。
そんな自分を変えたくて単身ニューヨークに渡ったのは25歳のとき。デビューして10年ほど経っていました。
実は、ニューヨークへの留学は『白線流し』に出演していたころからずっと希望していたこと。でも当時の事務所に相談した途端猛反対されて。
そのときは泣く泣く断念しましたが、私は割と粘り強いほうなので(笑)。そこから7年くらい事務所と交渉をし続けました。そして25歳のときにようやくニューヨークに行けることになったんです。
ニューヨークを選んだのは、英語を学びたいのはもちろんのこと、やはり演劇の本場だということが大きいです。演技だけでなく、ダンスやパントマイムなど、パーツを深掘りして学べる環境も豊富ですから。
俳優の仕事を休むことへの不安は、もちろんありました。なにせ入れ替わり立ち替わりの激しい業界ですし、戻ってきたときに自分の居場所はあるのかな?とは考えていましたね。
でも10年アウトプットをし続けてきて、もはや枯渇してしまっている自分を感じていたんです。インプットをする時間が絶対に必要だし、それは確実に今後の私にプラスになるという根拠のない自信がありました。
それに結局どのタイミングで休んだところで不安なんです。今だって、いきなり休むとなったら不安で心配になります。だったら、ニューヨークへ留学したいという熱が最高潮であるときに行きたい、と。10年やってきた経験を携えて、これからの私の未来を生きるために行こうという決断でした。
海外への関心が高まるきっかけになったのは、番組で海外へ行かせていただいた経験も大きいです。さまざまな番組にお世話になりましたが、『世界ウルルン滞在記』(TBS)は特に思い出深い番組です。
20歳そこそこの頃、タイの山岳民族の家にホームステイ。タランチュラを食べたことも! 味ですか? 味わう前に飲み下したので(笑)。
味はさておき、日本とはあまりに違うカルチャーは、私の価値観を壊してくれるのに十分でした。電気もガスもない環境で、育てているものはお米とキャベツと唐辛子くらい。あとは「よし! 美紀、獲りに行くぞ!」と。彼らは、山に存在する生命を余分に獲ることはしません。その日に食べられるぶんだけを獲るんです。
よく「困った時は同行のスタッフさんが助けてくれたんでしょう?」と言われましたが、本当に一切ないんです。カメラマンさんもビデオエンジニアさんも空気みたいにそこにいるだけで私と目も合わせてくれませんでした(笑)。彼らがどこに泊まっているかも知らないし、気づいたら物陰から撮影されているという状況でした。
そういう状況もありましたし、そもそも現地の方々の大切なタンパク源でもある昆虫を嫌がるなんていうのは失礼だと思いましたから、素焼きされたタランチュラもガブッといただきました(笑)。
ニューヨークでの留学中は、英語と演劇を勉強しながら、教会でのボランティア活動にも参加させてもらいました。教会がホームレスの方々へスープなどの炊き出しをしていて、私はそれを配るお手伝い。ニューヨークってみんなスタバのコーヒー片手に小気味よく道を闊歩しているようなイメージがあったので、こんなにも貧富の差があるなんてと衝撃を受けました。マンハッタンは広くはないのに、世界中の人々がギュッと集まっていて、さまざまな価値観や治安の良し悪しを含めた多様な世界観が詰まっていたんです。
ニューヨークでは1年半ほど生活をしていましたが、演技をはじめ、まずは自分のアクションを肯定してくれながらよりよい提案をしてくれる環境からの学びは、今でも私の支えになってくれています。
帰国後に『世界がもし100人の村だったら』(フジテレビ)という番組でフィリピンのゴミ山で生活をしている女の子に会いに行かせていただきました。
過酷な状況下に置かれた子供たちの現状にフォーカスした番組だったのですが、この時の経験がのちの、途上国の子供たちの支援活動をする国際NGOワールド・ビジョン・ジャパンの活動への参加に繋がっています。
番組で出会った女の子はゴミ山の中からお金になる資源を探し出し、それを換金して生活をしていますが、めぼしいものはほとんど大人が獲ってしまっている。そんな中、大人の目の届かないところに残された微々たる資源を拾い集めているんです。私も手伝おうとすると「危ないから来ないで」と。私のほうがよっぽど大人なのに、11歳の女の子に気を遣わせしまう現実。
そういった世界があることは知識として知ってはいたけれど、実際に目の当たりにした時のカルチャーショックはすさまじくて。この環境を変えるために自分には何ができるのかと考え始めたんです。
2007年からワールド・ビジョン・ジャパンの親善大使をさせていただいています。世界95カ国ほどにネットワークがあり、支援する地域を選定し、どのような理由で生活が困窮しているのかリサーチし、そして地域に密着して15〜20年のスパンで支援を継続していくのですが、私はご寄付をいただいた皆さんの視点で支援経過の報告をするなどの広報活動を行っています。俳優業と並行して、私の欠かせないライフワークだと感じています。
《衣装協力》
ワンピース¥48,400(ヴェルニカ/ヴェルニカ ルーム)サンダル¥17,600(ダイアナ/ダイアナ銀座本店)イヤリング¥9,900ゴールドバングル¥5,670シルバーバングル¥17,600左手リング各¥15,750右手リング¥8,910(すべてアビステ)
《問い合わせ先》
アビステ 03-3401-7124
ヴェルニカ ルーム 03-6323-9908
ダイアナ 銀座本店 03-3573-4005
撮影/堺 優史(MOUSTACHE) ヘア・メイク/金澤美保(MAKEUPBOX) スタイリスト/中村智香子 取材/キッカワ皆樹 編集/根橋明日美
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