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ナチュラルなグレイヘアに穏やかな笑みをたたえハッピーオーラ全開の俳優・石田えりさん。プライベートでは50代からサーフィンを始め、仕事では俳優業のみならず、舞台制作や映画の監督業にもチャレンジ。夢に向かって邁進する姿に勇気づけられます。今回は15年越しに実現したハリウッドデビューのお話や監督業、そしていまの40代に向けたメッセージなどをお届けします。
◆石田えりさんインタビューはこちらもCheck
《Profile》
1960年熊本県生まれ。『遠雷』(’81年)で日本アカデミー賞優秀主演賞と優秀新人賞を受賞。『嵐が丘』(’88年)、『サッド ヴァケイション』(2007年)、さらにはハリウッド映画『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(’21年)など多数の作品に出演。一方、’19年には短編映画『CONTROL』で初監督を務めた。長編初監督作『私の見た世界』が7月26日よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開予定。
30代後半のころ、旅行でロサンゼルスに行ったとき、丘の上のハリウッドサインを見た瞬間に、胸がキュンキュンしました。ハリウッドの映画に出たい、でも年齢的に仕事はあるだろうか、今からの挑戦だと遅いかな、といろんな気持ちが交錯しました。
そもそも私は怖がりで、外国人も英語も怖くて、街中で英語で話しかけられたら本気で逃げてしまうタイプ。英語を話せないコンプレックスや変なプライドと恥ずかしさが入り交じった複雑な恐怖心を抱いていたんです。でもハリウッドに挑戦する以上、そこを克服するしかない。とにかく英語を勉強しようと、カナダ、ニューヨーク、ロンドン、アイルランドなど、いろいろな国に半年間くらいずつ短期留学をして語学学校に通いました。とはいえ、半年では全然話せるようにならない。少し話せるようになっても帰国するとまた元に戻る、その繰り返しで、結局いまだに英語を流ちょうには話せないんですけどね(笑)。
それから15年以上も経った59歳のとき、なんと夢が実現!ハリウッド映画のオーディションの話が舞い込んできたのです。監督さんが、60代から70代の女性で、しかも完璧じゃない日本語なまりのある英語を話す俳優を探していて、オーディションを受けたら受かっちゃったの。海外留学で英語を勉強したことは無駄だったと思っていたこともあったけれど、勉強をしていなければチャンスもなかったし、下手な私の英語が夢を実現させてくれたんです。嬉しかったですね。
とはいえ、私が撮影に参加したのはシーンが日本に移ってから。京都、大阪、姫路で1カ月半。それが映画『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』です。「嵐影」と呼ばれる古代日本の忍者、頭領の祖母セン役で、ハリウッドデビューを果たしました。
これは、本当に夢にも思わなかったことですが、間もなく長編初監督作品『私の見た世界』が公開されます。松山ホステス殺人事件逃走犯・福田和子が整形で顔を変えながら15年も逃走した日々を描いたもの。これまでも彼女の逃走劇とその背景は、映像化や書籍化されていますが、ほとんど極悪人のイメージですよね。でもそれって興味を煽るように作り上げられたものかもしれないなと。私が描きたかったのは、逃げれば逃げるほど恐怖心は増していくし、社会からの風当たりも強くなっていく中で、彼女が何を感じ、何を見ていたのかということ。生きていれば、私も含めて誰だって怖くて逃げたいものと出会うはずで、そこから解放されるにはどうしたらいいのか。それを彼女を通して伝えられたらいいなと思いました。
そもそも映画を作ってみたいと思ったのは30代半ばのころでした。当時、俳優としてこれから先どうするかに悩み、1年間仕事を休んで南太平洋のクック諸島に行きました。そのとき、「これを映画にしなさい」と言われているような出来事があったんです。その感覚は心の底にありながらも、俳優業が続いていきました。でも「何か作りたい」という気持ちはずっとあって、まずは小さな舞台を3本作りました。その後、50代で短編映画を製作したのですが、映画はとにかくお金がかかる。その現実を思い知らされましたね。本当は長編映画を作りたかったのですが、俳優の私に出資してくれる人は現れません。出資者を探し、なんとか見つかっていいところまで進んでも、最後にダメになるということの繰り返し。これはもう誰かを待っていても無理だ。自分で作ろう。やって失敗したら、コンビニでアルバイトでもなんでもすればいい。そう覚悟を決めた途端にするすると進み、実現に至りました。
本当にやりたいことがあるのなら、自分からやったほうがいいんじゃないかな。もう還暦過ぎたから無理って決めちゃうと、そこで終わっちゃうじゃないですか。人間の可能性って、最後までどうなるかわからないものだと私は思います。自分のやりたい思いに従っていくと、一体私はどこに行きつくんだろう。どんな景色が見られるんだろう。そっちの興味のほうが私は強いですね。ダメだったらどうしようという不安や恐れはないです。先のことは誰にもわからない。ダメだったら、そのときにまた考えればいいことだから。それよりも、今やっていることを100%やることができたら、きっとなんとかなる、という気持ちのほうが大きいです。
私も含めて人は、ついネガティブに考えてしまいがちですが、そういう気持ちが出てくると、即否定する。だからこそ夢が叶ったのだと思います。
今後は俳優も監督も両方やって、こんなふうに演じて、こんなふうに表現できるんだと感じながら仕事を続けていきたいですね。特にやりたい分野はコメディ。人を傷つけようが全然気にしない超イヤな人を演じたいし、撮ってみたい。それをお婆さんバージョンでやってみたいと思っています。
自宅のリビングに20世紀を代表するアメリカの女性画家、ジョージア・オキーフの94歳のときの写真を飾っています。シワシワの顔で、白いシルクのブラウスにジージャンを纏っているのですが、スーッとしていて、本当にカッコよくて、いつも眺めています。あと30年生きていたら、こんなふうになっていたいって思うんですよね。
日頃から、私って最低って思うこともあるし、良いところも悪いところもあってぐちゃぐちゃしていながらも、理想の女性になるためには、日々の行動や発言をするとき、彼女だったらこういう選択をするだろう、逆にこんなことはしないって想像して行動すると、いつか自分の理想とする人に近づけるって本気で思っています。
人生はまだまだこれから。一見、ものすごく悪いことに見えたり、否定的なことだと思っても、これはダメだと決めつけず、中立に俯瞰して見て、どうしたらいい方向に変換できるのかと考えれば、後になって、これがあったから良かったんだと思えるようになる。
最近は、朝起きたらウグイスが鳴いていたり、庭掃除をしたあと、いい風が吹いてきたりすると、しみじみと幸せを感じます。自然の中に身を置いて、自分に戻るときって、気持ちがほっとするかけがえのない時間。そういう瞬間があるからこそ、また夢に向かって頑張れるのだと思います。
40代は映画もドラマもたくさんの作品に出させていただき、とても充実していた時期。なかでも47歳のときに出演した青山真治監督の映画『サッド ヴァケイション』は、よくやった! と思える自信作。これ以上準備も演技もできないというところまで演じ切りました。ヴェネツィア映画祭にも行き、高崎映画祭最優秀主演女優賞もいただきました。
戦わなくていいよ。何事も受け入れてみて。いい意味でどうでもいいや!って。私自身も怖がりで本当に逃げてしまうタイプ。自分にも言い聞かせるためにこの言葉を書いた紙を自分の部屋の机の前に貼っています。
2025年『美ST』8月号掲載
撮影/大森忠明 ヘア・メイク/赤間久美江 スタイリスト/山田陽子(マージュ) 取材/安田真里
2025年9月16日(火)23:59まで
2025年9月16日(火)23:59まで
2025年8月15日(金)23:59まで
2025年8月15日(金)23:59まで
2025年7月16日(水)23:59まで