PEOPLE
池波志乃さんにインタビュー。ひとりになった今、なるべくズボラに過ごしているという志乃さん。今回は46年間の夫婦生活、夫婦同時期の大病をきっかけに始めた終活、そしていまの40代に向けたメッセージなどをお届けします。
◆池波志乃さんインタビューはこちらもCheck
「夫が亡くなってから、食育インストラクターと野菜コーディネーターの資格も取りました」
《Profile》
1955年東京都生まれ。父は十代目金原亭馬生、祖父は五代目古今亭志ん生という落語界の名門に生まれる。俳優小劇場養成所を経て新国劇に入り、’73年ドラマ「女ねずみ小僧」でデビュー。’74年NHK連続テレビ小説「鳩子の海」で注目され、以降「悪魔の手毬唄」「鬼平犯科帳」など数多くの映画やドラマ、舞台で活躍。2019年NHK大河ドラマ「いだでん〜東京オリムピック噺」で20年ぶりに女優復帰。
夫とは13歳差で、私が23歳のときに結婚しました。女優を引退して子どもを産もうと思ってましたが、夫は2度目の結婚で、前妻への慰謝料と子どもの養育費の支払いのために、ものすごい借金があることがわかったんです。返済するために、ふたりで事務所を立ち上げてガンガン働きました。でも、額が減ってくると、夫がアトリエを建てたいとなって、また借金が増えて。夫は役者で、絵を描くことも好きで、いろいろなことに挑んでいきたい人。私も女優として同志のような気持ちで夫を支えたいと思い、子どもを持たない人生を選択しました。
借金を完済した38歳のころ、精神的に疲れが出たのか拒食症気味になり、貧血で1週間入院。ちょうど夫がバラエティに出始めて忙しくなり、私は完全に女優を引退。実父は10年前に亡くなり、母と3人で暮らし始めたころ、沖縄に別荘を購入。自宅の東京・谷中と千葉・木更津のアトリエとの3拠点行き来する生活になりました。
私は音楽好きが高じて、沖縄のミュージシャンを応援するためにマネージメント事務所を設立。CDを出したりライブを開催したりして、沖縄でも仕事を。夫は、東京・大阪・沖縄それぞれにレギュラー番組を持って忙しいなかで 拠点を行き来。母は趣味の俳句をやりながら家事を分担してくれ、その時期は3人でスケジュールを合わせて、それぞれ好きなことを好きなようにしていました。それでも、東京で3人で会うときは喫茶店で待ち合わせして、贔屓にしているお店にご飯を食べに行くという生活でした。
40代は、これまでとは違う世界で、今までにない出会いがあり、いろんな場所に行って、楽しかったです。
ところが、51歳のときにフィッシャー症候群で突然倒れ、1カ月以上入院。免疫異常を起こすと末梢神経がしびれて、手足などが麻痺するんです。一時期はスプーンも持てず、目玉も動かなくなり、必死のリハビリ生活を送りました。その間、母が乳がんの闘病の末に亡くなり、さらに翌年、彬が肺炎球菌で倒れちゃったんです。これは、リセットしなさいということだなと思って、お互いに体が回復した後、まずは沖縄の家、続いて木更津のアトリエを手放し、断捨離を始めました。
いろいろ整ってきた60歳前後に東京で夫婦ふたりの生活がスタート。
ところが、彬は肺炎球菌は治ったものの、細菌が体中を回って傷めたのが原因なのか、2〜3年に一度、違う部位にがんを発症するんです。転移ではないから、治療すれば1カ月程度で寛解するという状態を何度か繰り返しました。彬は病気を公表することを頑なに拒み、レギュラー番組は何とかこなして、長期間入院するときは海外に絵を描きに行く、と噓の理由で乗り切っていました。その連続だったので、私も完全に噓つき女になっていました(笑)。夫の頑張りを傍で見ていたから、噓をついてでも夫に協力しないわけにはいかなかったですね。
私たち夫婦は一言で言うと親友かな。年齢差があるので、超尊敬している先輩でもありました。喧嘩はほとんどしませんが、怒られることはありました。えっ?とは思っても、そもそも男と女は体の中身、内臓が違うから、文句を言っても通じない。言い合いになるだけだから無意味です。理屈じゃない、体が言わせているんだと思って、何も言わないと決めていました。どうしても直してほしいときは、そのときにではなく、しばらく経ってから「あのときは、こうしたほうがよかったんじゃない?」と軽く言うと、「そうだね」って向こうも素直に聞いてくれて丸く収まります。喧嘩してカリカリした状態で同じ家にいるって全然気持ちよくないから。すべては自分のためです。
私たちは、食べるのも飲むのも好きだから、お料理もよくしました。夕飯は、必ず手書きのお品書きをテーブルに置いていました。書くことで、おしょうゆ味ばっかり、揚げものばっかりになることを防げて、メニューのバランスが取れるんです。まずはつき出しでお酒を飲んでもらって、その間に、炒めものをしたり、揚げものをしたり。お品書きは、時間稼ぎをしながら、段取りよく進めるための覚え書きでもありました。
メニューは「今の季節これだよねとか「いいお酒が入ったからこれにしよう」などとふたりで話しながら決めて、飲んで食べて会話して。夕飯は毎食楽しいひとときでした。ふたりで外食もよくして、その前に映画を観たり、本屋さんに立ち寄ったり。60代は夫婦べったりでしたね。夫の体調は波があって、調子がいいときに、亡くなったときのこと、延命治療やお葬式についてもしっかり話し合いました。具合が悪くなると、人が最初にできなくなることが喋ることなんです。まず言葉を失う。何人も見送ってきたけど、全員そうでした。だから、元気なうちに何でも話すようにしていました。
まだまだ頑張れると思っていたんですけどね。本人もそう思っていたと思います。亡くなった月には年間契約のCMまで撮影していたのですが、急にガクッときて、逝っちゃいました。
悲しんでいる間もなく、しなきゃいけないことがたくさんあって。世間に発表する文言を考え、お坊さんに電話して、葬儀屋さんに連絡して、頭が真っ白になるのを必死で止めて、ひとつひとつこなしていきました。でも、葬儀屋さんが帰って、家にひとりになったら、「どうしたらいい?」と彬に聞いても返事がないの。寂しくなって、外に出て1時間くらいあてもなくほっつき歩いて頭を冷やして。途中でセブンイレブンに立ち寄ったら、夜中の3時を過ぎているのにみんな忙しそうにしているの。私、邪魔だわ、こんなことしている場合じゃないとハッとして家に戻りました。
死は誰にでも訪れる日常。備えていないほうがむしろ不安で、細かいところまで話していたから、迷いなく万事彼の望み通りにすることができて、むしろ救われたと思います。
かつては1日のスケジュールを決めて、わりと自分を縛るほうでしたが、それができないと落ち込んだり、自分が嫌になったりしてストレスになるんです。そんなに規則正しく、人は生きられるもんじゃない。せっかくひとりで何の規制もないので、なるべくズボラで生活しています。友人と飲みに行く日もあれば、家でお酒に合うものを作ってひとりで飲んでいることも。
今年70歳になりました。よく70代はまだまだ体力がある、80代こそ楽しいなどと言う人もいますが、それぞれ体も気持ちも違うから、真似することで体を壊すこともある。世間の言葉を真に受けないようにしていますし、ここまでしか体が曲がらない、これだけしか歩けないとしても、それでいいんだよ、と人にも自分にも言いたいです。
人は千差万別。性格も体力も生い立ちも若いころの生活も違う。人の言う通りにしたとしても、結果が一緒になるわけではない、その人には良くても自分には悪いことだってあります。だから自分なりの芯をしっかり持って、人に振り回されず、ちゃんと生きている人が美しい。私もそんな気持ちで70代80代を過ごしていきたいですね。
40代は東京と沖縄の家、千葉・木更津のアトリエでの3拠点生活。夫の予定に合わせて一緒にご飯を食べに行ったりしながらも、それぞれが好きなことに没頭して過ごしていた時期でした。38歳で女優を引退してからは、沖縄で音楽事務所を立ち上げたり、趣味の読書が高じて書評や文庫本の解説を書いたり。180度生活が変わり、今までにない新たな挑戦をしたのが40代。楽しかったですね。
見た目も中身も違うのが人間。人がしていることを鵜呑みにせず、ちょっと真似してみて、自分に合うものだけを取り入れる。合わなければ自分には合わなかった。ただそれだけのこと。
《衣装クレジット》
ブラウス ¥123,200、スカート ¥77,000(ともにマリナ リナルディ/マックスマーラ ジャパン)ピアス ¥781,000(フォーエバーマーク/カシケイ)イヤカフ ¥1,540,000(TOMOKO KODERA/カシケイ)
『美ST』2025年9月号掲載
撮影/枦木 功 ヘア/谷口愛子(M.TANIGUCHI) スタイリスト/後藤仁子 取材/安田真里
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2025年11月16日(日)23:59まで
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