PEOPLE
2時間ドラマの出演は通算500本以上。サスペンスをはじめとしたドラマの脇役には欠かせない女優、山村紅葉さん。現在は、舞台やバラエティでも大活躍で唯一無二の存在感を放っています。転機となったのは、夫の赴任に伴い暮らしたニューヨークでの経験と最愛の母の死にあったと言います。
やまむら・もみじ
’60年京都府生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中に女優デビュー。卒業後は国税調査官として働き、結婚を機に退職し、再び女優へ。2時間サスペンスドラマで人気を博し、以後、舞台、映画、バラエティなど活躍の場を広げている。母は作家の故・山村美紗さん。ゆうもあくらぶ常任理事。1月18日よりスタートのフジテレビ「大奥」(毎週木曜夜10時放送)昭島役で出演。
京都生まれの京都育ちで、幼稚園から高校までエスカレーター式の国立付属に通いました。亡き母(作家の山村美紗さん)は、私が小学校1年生のときに小説を書き始め、ものすごく忙しくなりました。同級生のお母さんは専業主婦が多く、スキー教室のときは手編みのセーターを着て、遠足には華やかな手作り弁当を持ってくる友達ばかり。それが羨ましくて、絶対に専業主婦になって子どもを大切にしてあげようと思っていました。
高校生の頃は母の本が売れ始め、ドラマ化されたり、“ミステリーの女王”や“日本のアガサ・クリスティ”と呼ばれるように。東京に行く機会が増え、東京の魅力を語り出したんです。「東京の男の人は椅子も引いてくれるし、親切なんだよ」とか、キラキラした場所にキレイな着物やドレスで出席したり…東京で生き生きしている母の姿を見て、私もああなりたいと憧れを抱くと同時に、偉大な母から独立したい気持ちもあり、京都の大学ではなく、早稲田大学政治経済学部に入学しました。
実家に帰省した大学2年生のとき、打合わせに来ていたプロデューサーの方から「ドラマに出ませんか?」とお誘いを受け、軽い気持ちで母の原作サスペンスドラマ「燃えた花嫁」に焼き殺される花嫁役で初めて出演。でも、焼き殺されるって見たこともないし、どう演じていいかわからないまま演じていたら、監督から「そんなんで人間は死なないんだ。死んだことないのか?」などと散々怒られて……。その後もオファーが続き、記念出演のはずが大学卒業まで20本以上もの作品に出演しました。
でも所詮素人ですから、就職活動に専念することにしたんです。とはいえ特技もなく、男女雇用機会均等法の施行前で、4年制大学の女子の選択技は少なくて。その頃、テレビで見た脱税の摘発に興味が湧いて、脱税を摘発し、みんなが正しく税金を納める世の中になれば、福祉や教育の財源を作れるのではないかと、国税庁国税専門官試験を受験。合格して、大阪国税局で国税調査官として働き始めました。女性採用5期目で、映画『マルサの女』公開前のことでした。服の中にお金を隠す女性がいたら、女性にしか調べられないし、祖母も母も着物が好きだったので着物の価格がわかる私にしかできない仕事もあって面白かったですね。でも、3日間だけ上司だった大蔵官僚の夫と26歳で結婚。
夫は女性の採用に積極的だったので、一生仕事を続けるつもりでしたが「いつ辞めるの?」と聞かれ、「女性は結婚しても働き続けるべき、と言ってたよね」と言うと、「一般論はそうだけど自分の奥さんには家にいてほしい」と言うんです。子どもの頃に父親を亡くし、母親が働いていたから家に家族がいることが夢だったのだと。私も「そうだったな」と思い、仕事を辞めて専業主婦になりました。すると、後輩の女優さんからピンチヒッターで出演してほしいとお願いされたんです。当時夫はNTT株の売却に関わっていて超多忙。帰宅も遅く、少しならいいだろうと受けていたら、どんどん仕事が来るようになって、断れずに受けていたら、また女優に戻っていたという感じです。
34歳のとき、夫のニューヨーク転勤が決まりました。着任は7月からでしたが、翌1月の初舞台が既に決まっていたんです。しかも主役に次ぐ大きな役。 12月から1月まで帰国しなくてはいけないことを夫に相談すると、クリスマスや新年のパーティには夫婦で参加したい。ホームパーティも盛んな時期なのにいてもらわないと困ると反対され、解決しないままニューヨークへ。せっかくなら演技の勉強をしようと演劇学校に通ってボイストレーニングやダンスを習い始めると、世界中から集まってきている方々が歌もダンスもめちゃくちゃ上手なのに、その他大勢のアンサンブルやオーディションにすら受からないのを間近で見て、いかに自分の立場が有り難いかに気づき、この舞台を逃すのはもったいないという気持ちになったんです。
大反対の夫にじわじわじわじわとお願いし、最終的には渋々OKしてくれました。そして、夫が一時帰国したときは舞台を観に来てくれて、生き生きと演じる私や大勢のお客さまからの拍手を見聞きして、「これからは応援する」と言ってくれたんです。それから初めて本格的に女優として生きていく決意をし、舞台も精力的にやるようになりました。
その2年後に母が亡くなりました。滞在していた東京のホテルで執筆中に亡くなり、本当に急でした。主な原因は過労。200冊以上の本を出していたので、お葬式のとき「あんなにがめつく書かなくてよかったのに」と編集者の方に言うと、母が生前「紅葉は私のコネだけで仕事を続けているから、いっぱい書いておかないと女優が続けられなくなる」と言っていたと聞いて号泣しました。
亡くなったことも大ショックでしたが、私が女優をやってなかったら、母はあんなに頑張って書かなくてもよかったのではないかと動揺しました。母は私が女優になることは賛成も反対もしていなかったけれど、舞台は大反対で、自分と全く違う世界だから助けることもできないと観に来てくれもしなかったんです。
でもその後、私の舞台のチケットをいっぱい買って「感想を教えて」と編集者にこっそり渡し、観に行ってもらっていたと聞き、そういう母の想いを何も知らなかった自分を恥じました。だから、舞台やバラエティなど母と関係のない世界で活躍していることを見たら、母は天国で安心して暮らせるのではないかと一生懸命頑張りましたね。
母の作品は場所が多いうえに、トリックの解明が舞台ではしづらく、舞台化が実現しなかったのですが、’10年に京都・南座で『京都花灯路恋の耀き』、’19年には母の好きだった新橋演舞場で『京都都大路謎の花くらべ』が舞台化。会場は満席で、みなさんから芝居を褒めていただいて、遅ればせながら母に恩返しできた想いでした。
長年京都と東京と崖との生活。夫も多忙だったので、盆暮れに夫の実家に行くときは良妻を演じようと、義母と夫のわがままを100%聞き、できる限りのことをしてきました。料理も食べたいと言うものを何でも作りましたね。でも1人のときは冷凍食品で間に合わせたり簡単に。何もかも頑張ろうと無理をしません。
母が65歳で亡くなっているので、健康にはことさら気をつけています。コロナ禍で仕事が少なくなったときは落ち込みましたが、「仕事を休みなさい」という母からのメッセージだと受け止めましたね。何か気になることがあると、すぐにホームドクターに相談します。京都ではたまたまいい方と知り合えましたが、東京では近所の調剤薬局の薬剤師さんに聞いて探しました。コロナのときも、最大の防御は洗浄と消毒など色々教えてもらい、徹底したおかげで今のところ何とかかからずに乗り切っています。
先日入った喫茶店に、結構なお年の白髪の女性がいらっしゃり、佇まいがとても美しく、笑顔のキレイな方でした。不満や愚痴があっても言わず、自分の人生に満足している方なんだろうなと思いました。こんな方が母だったら、誰かの妻だったら素敵だろうなと創造力を掻き立てられるような人は、大抵雰囲気に美しさが滲み出ています。私もそういう人であるよう常に努力を重ね、人生を歩みたいと思っています。
常々母が、口に出せば願いが叶うと言っていたので、7年ほど前、絶対にないとは思いつつ、NHKの朝ドラと東宝カレンダーに出たいとインタビューで答えたら、翌年2つとも叶いました。だから、声を大にして、10年以内に大河ドラマに出たいと言っておこうと思います(笑)。
母が自分を納得させていた言葉です。お金をいただけるということは、それだけ辛いことがあって当然という意味。私も寒い時期に断崖絶壁で何時間も過ごしましたが、その都度この言葉を思い出して納得し、自分を励ましました。
40代は仕事が忙しく充実していました。舞台にも年最高5回出て、合間を縫ってサスペンスドラマに出演し、崖にはよく行ってました(笑)。写真は47歳のときに「世界ウルルン滞在記」の海外取材でスペインに行かせていただいたときのもの。シェリーのベネンシアドールに扮して。
撮影/下村一喜(AGENCE HIRATA) ヘア・メイク/白石真弓 取材・文/安田真里 編集/和田紀子
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