PEOPLE
佳作として知られる小栗康平監督の映画でデビューして40年。以来、映画60本、ドラマ100本、舞台20本以上に出演してきた俳優の南果歩さん。50代半ばからは、趣味のバンド、自伝エッセイの執筆、アメリカ制作のドラマ出演と初めてのことにチャレンジし、「60歳はリスタート」と意欲満々です。今回は南果歩さんの美の秘密をインタビューを通してお伺いしました。
《Profile》みなみ・かほ
’64年兵庫県生まれ。’84年、短大在学中に映画『伽耶子のために』のヒロインでデビュー。その後、テレビや映画、舞台で幅広く活躍。最近の出演作は、海外ドラマ「Pachinko パチンコ」(AppleTV)など。近著にエッセイ『乙女オバさん』(小学館)、絵本『一生ぶんの だっこ』(講談社)。来年、映画『Rules of Living』、『ら・かんぱねら』、主演を務める韓国映画『蕎麦の花咲く頃』が公開予定。
7/12(金)13(土)東京文化会館 小ホールにてMusic Program TOKYO シアター・デビュー・プログラム 舞台『木のこと The TREE』に出演
妊娠を機に31歳で結婚、長男を出産しました。5歳からはシングルマザーとなり、記憶がないくらい子育てと仕事に翻弄された30代でした。いろんな人に助けられましたね。息子が10歳になった41歳のとき、再婚しました。息子のために家族を作りたいと思ったから。家族でロスに移住し、ちょっとひと息ついて、これからどういうふうにステップファミリーを築いていこうかと考えました。
やりたいことはたくさんあるけれど、物事には何でも優先順位があります。私にとっては子育てだと思い、お母さんを最優先した2年半でした。あの時、そうしていなかったら、子育てに後悔をしていたと思います。できることはやったつもりですが、私も母親1年生だったし、後悔はないけれど反省はあります。
振り返ると、10代はわけがわからないまま突っ走り、20代、30代はいっぱいいっぱい。40代は体力も経験値もバランスが取れ、視野も広く、ようやく自分の人生の今後の展望を考え始める、重要な時期でした。40代こそ人生のスタートだったと思います。
52歳になって、初めて人間ドックを受けたとき、ステージ1の乳がんが見つかりました。誰もがそうだと思いますが、健康に関しては大丈夫と過信しているところが私にもあって、がんを告げられたときは、ドラマの台詞のように「まさか、私が」と心の中で呟いていました。と同時に、その瞬間、命と健康以上に大切なものはないと身に沁みました。
術後は再発防止の標準治療として、ホルモン療法による薬の服用と放射線治療、抗がん剤の投与が始まりました。ところが、抗がん剤が体に合わなくて、倦怠感、足の痺れなどがひどく、ベッドから起き上がれない状態が長く続きました。必要な治療なので悩みましたが、セカンドオピニオンを受けたい先生に巡り合い、診ていただくことに。その先生の見立てによると、「僕は必要ないと思います」と。それを踏まえて主治医と相談し、標準治療を一旦離れ、食事や規則正しい生活で体力を取り戻すことにしたのです。
その頃、映画にもなった『わたしに会うまでの1600キロ』という1冊の本に出合いました。辛い出来事が続いた主人公が、1600キロをひとりで歩きながら、自分を見つめ直す。まさに私そのもので、読んでいるうちに心身ともにラクになっていきました。ところがその翌年、元夫の問題を報道で知ることになりました。それからはどう過ごしたかも覚えてないくらい記憶になくて。気づいたら重度のうつ病になっていました。まるですべてが止まり、暗いトンネルにいるような時間のなか、当時息子が大学に通っていたサンフランシスコへ。東京を離れての転地療法を試みました。
うつ病の薬も全部捨て、サンフランシスコの友人宅にお世話になることにしたのです。不眠症が続いていたので、規則正しい生活をするために無理矢理にでも起きて語学学校に通い、習い事やヨガをして、友人のために夕食を作る毎日でした。そんな何気ない生活を送ることが私には良かった。
でも、突然良くなることはなく、薄紙をはぐように、少しずつ回復し、冷静に事態を見つめることができるようになっていきました。結婚生活をどうするか、熟慮に熟慮を重ね、答えを出すまでに相当時間を費やしました。今までの夫婦関係を見直し、私がやってあげられることは全部やったと思えたんです。
もう一度やり直す糸口は見つからなかったですね。それは自分を裏切ること。自分に噓をついて生きることほど辛いことはありません。病気の後だったからよりそう思えたのだと思います。そして、54歳で離婚しました。渦中にいるときは、自分が置かれた状況に気持ちが向き合えていなかったし、整理もできてなかった。でも、今振り返ると、あの経験があったから、今の喜びにつながっていると思います。深い谷を知ったから、高い山に登れているという感じですね。
今はすっかり季節が変わりました。子育てが終わり、予期せぬ独身に戻り時間割りが変わったのです。家族に自分のスケジュールを相談しなくても、即断即決できる。それってほんとに快適。まさに20代に戻った感じですが、ただ20代じゃなく、うんと経験を積んだ 20代の気持ちでいます。
50代半ばからはどんどん新しいことに挑戦しています。在日コリアンのファミリーヒストリーを描いた米国ドラマ「Pachinko パチンコ」のオーディションに挑戦したときは56歳。今年前半は、韓国と台湾でそれぞれ映画の撮影をしていますが、海外を特に視野に入れているわけではないんです。私の年代は母親役ばかりになりますが、母親でも人間性を描いている役をやりたい。おもしろいと思える役を探して三千里という感じです。
東日本大震災後からは、読み聞かせボランティアがライフワークです。コロナ禍ではリモートで読み聞かせをしていたのですが、出版社から絵本の使用許可がなかなかいただけなくて。私が以前秘かに書いていた物語をリライトして、絵本『一生ぶんのだっこ』を創作し、同年、半生を綴ったエッセイ『乙女オバさん』も出版しました。
いろいろ同時にやっているように見えますが、1つずつコマを進めて次のサイコロを振るという感覚です。やみくもにジャンプするのではなく、1つずつやった先に扉が開いてきました。プライベートでは、もっと自分を成長させるために、行きたい場所に行き、見たいものを見て、どんどん夢を叶えていこうと思っています。今年はずっと行きたかったアンコールワットに行きます。エジプトも絶対いつか行ってみたい。結婚は、本当に人生を共にしたい人が現れたら考えます(笑)。
誰かの真似でなく、個性を生かし、自分が人生の主人公として、自分自身を生きている人、が美しい人だと思います。私は瀬戸内寂聴先生が好き。最後まであんなふうに生きられたら最高ですね。
41歳で再婚し、家族3人でロサンゼルスに移住しました。雑誌『STORY』も取材に来てくださり、ロスでの生活を披露したんですよ。その間は仕事を離れ、子育てを最優先。学校や習い事へ息子の送り迎えをし、その間、私は語学学校やパワーヨガのクラスに通う生活。息子との蜜月の時間を重ねた40代でした。
私の人生に必要なものは、Love・Dream・Smile。この3つがあれば何があっても生きていけると思っています。中でも一番大切なのはLove、愛情ですね。愛のない生活は人生において無意味。常に愛を意識して生きています。
《衣装クレジット》
ブラウス¥123,200 スカート¥143,000(ともにエルマンノ フィレンツェ/ウールン商会)イヤリング¥385,000 リング〈指先から〉¥335,000、¥255,000、¥440,000(すべてデビアス フォーエバーマーク)シューズ¥59,400(ネブローニ)
2024年『美ST』7月号掲載
撮影/中村和孝 ヘア・メーク/黒田啓蔵 スタイリスト/坂本久仁子 取材・文/安田真里 再構成/Bravoworks,Inc.
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2025年11月16日(日)23:59まで
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