PEOPLE
還暦を迎えた2016年8月号にご登場いただいてから7年。人生の師であり、母、そして姉であり、親友でもあった俳優の樹木希林さんの死からもうすぐ5年。近年は話題の映画で活躍する女優の浅田美代子さん。遊ぶことからすべてが生まれ、悲しみや辛さも乗り越えられたと語ります。
今日のスカートは、ジュンヤワタナベとリーバイスを合わせた商品。プリーツスカートにドッキングさせたデニムが、数十年愛用しているリーバイスのGジャンと同じものだったので、黒のTシャツとコーディネートしました。
私、Tシャツにもこだわりがあって、衿ぐり、袖の長さ、太さなど気に入ったものがあるとまとめ買い。年齢を重ねると、衿ぐりがポイント。広いとダサく見えるから、すごく大事。ユニクロの白Tはカッコいいです。鏡で最終チェックをして、シンプルなネックレスを2本重ね、バレンシアガとエルメスのブレスレットを。
若い頃から服が大好き。体型のせいで好きな服が着られなくなるのが嫌で、ボディはある程度ケアしています。とはいえ、二の腕がぶよんぶよんしてきて、袖なしはもう着れないかも(笑)。
《Profile》
1956年東京都生まれ。’73年にドラマ「時間ですよ」でデビュー以来、TVドラマや映画に多数出演。バラエティ番組「さんまのからくりTV」での天然キャラで人気に。’19年樹木希林プロデュース映画『エリカ38』主演、’21年映画『朝が来る』で日本映画批評家大賞助演女優賞受賞。動物愛護団体支援もライフワーク。樹木希林さんとの交流を綴った著書『ひとりじめ』(文藝春秋)が好評発売中。
樹木希林さんとの出会いは、17歳でデビューしたドラマ「時間ですよ」のオーディション。希林さんは、2万5000人の応募者の中から私を選んでくれた審査員の1人でした。以来、希林さんが亡くなるまでの46年間、自然に一緒にいました。お芝居の師でありながら、13歳という微妙な年齢差で、姉や母のような存在でもあり、かけがえのない女友達でもありました。
私と仲良くしてくれるのは、芸能界に引き入れた責任感と言う一方で、「お互いにいいんだよ。美代ちゃんは天然ボケで通っているけど、私と仲良くすることで知的な部分もあると思われるし、私は面倒くさそうな女に見られているから、美代ちゃんと仲がいいと結構親しみやすいところもあるのねって思われて、お互いにお得よね。おもしろい」って。毒の部分もわかり合っていたし、何よりウマが合いました。
朝、身支度をしていると希林さんから電話がかかってきて、「8チャン見て見て。あの人、やったわね」って言うから「うん、やったね」と答える私。希林さんは整形話が大好きで、女優の顔が変化したのを発見すると、喜々として連絡してきて、2人で分析(笑)。時には本人に「どこの病院でやったの?」と聞いて、後から私が「どこどこですって言うわけないでしょ」と叱ったこともありました。逆に私は「洋服を買うのはいい加減にやめなさい」って叱られて。当時は雑誌『STORY』や『HERS』で私服連載ページを持っていた私は「オシャレしてなきゃいけないから」と言うと、「美代ちゃんのことをオシャレだと思っている人なんていないわよ」って嫌味を言われて、くそーって怒ったり。喧嘩までは行かなくても、ムッとし合うことはよくありました。
お互いの家族も紹介し合い、希林さんとハワイに行くと、夫の内田裕也さんと合流することも。あるとき、3人で食事中に酔っ払った裕也さんが、希林さんの前で「俺もいい女と付き合っていたね」って不倫を自慢するから、私が「不倫して、どこがいい女なんですか?」とめちゃくちゃ怒ったとき、裕也さんが帰った後で「おもしろかったねー。あのときの裕也の顔見た?」ってすごく喜んで可愛かった。整形話とは逆に不倫は大嫌いでした。
45歳で長年一緒に暮らしていた母が亡くなり、喪失感から抜け殻のようになっていたとき、希林さんが「家を買いなさい」と勧めてくれたんです。でも、私は子どももいないし残す必要もないから賃貸でいいと言うと、「60歳過ぎたら誰も貸してくれないよ」と脅されました。不動産が大好きな希林さんは私と一緒に探し歩き、納得のいく物件が見つかると、ローンを組むのも立ち会ってくれました。その後は「CM出てたね。ギャラはいくらだったの?」「ちょっとでも返しなさい。借りたものは返しなさい」と毎年のように言われ、一緒にご飯を食べに行っても、「ローンを組んでいる間は私が奢る」と奢ってくれたり。だから返済は早く進み、10年以内に終了しました。
引っ越して20年、まさに終の棲家になりました。家を買ったことで、鎧みたいなものも取れました。高級車とかブランド物とか外に対しての鎧が外れて、そういうものに頼る必要がなくなり、ラクになった気がしています。
希林さんは、よく「美代ちゃんて離婚もして意外と苦労しているのに、どっしりとした重さがないんだよね」と心配していたのに、亡くなる少し前にベッドの中で「重さがないって言い続けてきたけど、そういう人がいてもいいと思う」と言われ、どう解釈すればいいのかいまだにわからずにいます。あきらめられたのか、本当にそう思ったのか、その希林さんの遺言をどう見極めていくかが、今後の私の課題だと思っています。
19歳でミュージシャンの吉田拓郎さんと出会い、21歳で結婚後芸能界を引退。7年間の結婚生活を経て、28歳で離婚しました。理由はいろいろあるけど、結婚も離婚もして良かったと思っています。でも振り返ってみて人生で一番苦しかった時期は、離婚直後に人ってこんなに変わるんだと思い知ったときです。私名義の口座なのに銀行でスムーズに下ろせなかったり家が借りられなかったり。
当時は離婚が世間では受け入れ難いことで、「可哀そうな浅田美代子」として見られ、仕事を再開しても不幸で悲しい役しか来ない。プライドだか何だかわからないけど、そういう目で見られたことがほんと悔しかった。たくさんの慰謝料をもらっていると思われてもいいから、そういう役はやりたくなくて、すべて断りました。実際はお金がなくて、「浅田美代子という商品に投資すると思って。絶対に返します」と約束して母に借金をし、シャネルのバッグや服を買って自分を鼓舞。そういう方向に意識して持って行くうちに徐々に不幸なイメージも薄れて、36歳で明石家さんまさんに誘われて出演した「さんまのからくりTV」で天然キャラとしてブレイク。完全に払拭できました。さんまさんには本当に感謝しています。
私は生まれも育ちも麻布で、会社経営の父と専業主婦の母のもとで育ちましたが、父が「飲む、打つ、買う」とやりたい放題する人。ずっと嫌悪感を抱いて反発し、苦労も嫌な思いもしてきました。でもいつも乗り越えてきたように思います。悶々とこもって悩んでいるよりも、勇気を出して外に出かけて友達と会っていると、愚痴や辛さを言わなくても、ちょっとしたことで笑っている自分がいるんです。
人生って、どうしたって解決できないことってあるから。時間しか味方にならないことってある。だったら、悩んでばかりでなく、遊べばいいと思う。友達と飲んで食べて、カラオケに行ったり、旅行したり。遊ぶことから友情も仕事も恋も生まれた気がします。苦しみもいつの間にか過ぎ去って行きました。
30代、40代は恋もいっぱいしましたが、結婚話が出ると、んー!って引いちゃって、再婚は考えたことなかったです。でも母に「結婚しなくていいから子どもを産みなさい」と言われ、タイムリミットの40代のときはイメージがわかなかったけれど、50歳過ぎてから「産んでも良かったな。いたらどんな生活だったかな」と思ったりはしますね。でも後悔はありません。
40歳過ぎたら生きざまが人相に出ます。意地悪したり、怒っている人は眉間に縦ジワが入っているもの。縦ジワってきついから、シワは縦でなくて横であってほしい。そのためには10年後(?)え、80歳間近かー。であってもよく笑うおばあちゃんでありたいですね。
「おもしろがる」は希林さんがいつも言ってた言葉。楽しむのではなく、おもしろがる。楽しむというのは客観的だけど、仕事も人間関係も何もかも中に入っておもしろがる。これが私の座右の銘になっています。
2023年『美ST』9月号掲載
撮影/彦坂栄治(まきうらオフィス) ヘア・メーク/新井克英(e.a.t…) 取材・文/安田真里 編集/和田紀子
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