PEOPLE
恋愛小説の名手として話題作を次々生み出してきた作家の村山由佳さん。「刃の上を裸足で歩くようでなければいい小説は書けない」とプライベートでも激しい恋愛を経験した時期を経て、5歳年下の従弟でもある現在の夫と55歳で結婚。穏やかで優しいほほ笑みに、還暦を迎えた今の幸せな暮らしが伝わってきました。
《PROFILE》
’64年東京都生まれ。’93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。’03年『星々の舟』で直木賞、’09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、’21年『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。近著は、エッセイ『記憶の歳時記』(ホーム社)、小説『二人キリ』(集英社)。
2人目の夫と離婚して10年。その元夫が作った借金が残っていて、今も返済しています。一番きつかった峠はどうにか乗り越えましたけど。元夫は9歳年下で無職。家計はすべて任せていたので、私は自分がいくら稼いでいるかも知らなかった。彼を信頼していたし、「大丈夫」と言うから大丈夫だと思っていました。お互いに結婚生活を持続する意思さえあれば、経済的に破綻するようなことはするまいと思っていたけど、彼はいつ壊れてもいいと思っていたんでしょうね。後になってわかりました。ゴルフや女の子のいる飲み屋さんなどでお金を派手に使って遊び、株や先物取引に手を出して。「600万すっちゃった」と言われたこともありましたが、今さら怒っても事実は変わらないと思うと、怒れなくなってしまう性格なんです。半狂乱になっていればまた事態は変わっていたんでしょうね。離婚を決意したのは、2人の関係性に対する彼の眼差しに愛情を感じられなくなったから。生命保険や医療保険に入ることも断固拒否されて、それを親友に話したら、「ずっと我慢していくの?」と問われ、「無理だよね」と言った途端に涙がばあーっと流れました。ずっと正常性バイアスみたいなものに縛られていたんでしょうね。
そこからは早くて、一週間でクレジットカードも鍵も返してもらい、出て行ってもらいました。それが50歳のとき。向こうは泣いていたけど、私は泣けなかったです。稼ぎ手が女の自分だからこそ、夫婦関係を保つためには彼のことを立てないと、と必要以上に気をつかっていたんです。私には内なる“女大学”があって、親世代の考え方がそのまま。だから、出て行ったあとは、こんなに自由でいいの?と思いました。お金を湯水のように使っていることはわかっていたので、彼がいなくなったらバケツの穴がふさがって、火の車状態の家計も立て直せると思っていたのに、蓋を開けたら、利息9%の借金が何口かあり、そのうえ、離婚翌年に国税局の監査が入り、彼が無理矢理経費として突っ込んだものが認められず、さらに5年ほど遡って追徴課税を1千万以上払う羽目に。そのうえ家が差し押さえになっていて、それを知らずに借金をしに行ったら銀行に断られ、もう大変な事態。大切にしていたジュエリーもほぼ売って、一生懸命働きました。きつかったときは、新聞、週刊、隔週刊、月刊、隔月刊と連載が同時並行。実情を理解してくださった出版社からお仕事をいただく形で助けてもらいました。
仕事があったのは本当にありがたかった。頑張れたのは私が丈夫で元気だったから。無理が効いたのです。でも、一番大きかったのは、離婚した年の暮れ、ゲスト出演したラジオ番組を聞いていた従弟から連絡があり、翌年春からパートナーとして支えてくれたこと。夫は深刻にならず、「あほじゃ。ま、地道に返してったらええがな」と言ってくれました。従弟ですから気心も知れ、日々楽しいんですよ。もしそうでない毎日だったら、恨みつらみを抱えていたかもしれません。元夫に対してネガティブな感情が噴き出たのは、家の差し押さえを知らされ、家にある段ボールを蹴飛ばして泣いた1回きり。二度と声も聞きたくないし、今も許してはいませんけれどね。
40代は恋愛が集中していた時期で、迷走していました。2度結婚していた間も恋愛がなかったとは言えませんし、どうあれば幸せでいられるのかよくわからなかった。また、作家という職業がら、刃の上を裸足で踏んで歩くように自分を追い込まないと、気持ちを動かせるものは書けないと思い込んでいました。傷ついて血を吐いて便器を抱えながら、ありがたい、これも書けるみたいな感じで。目の前のこの人から何が得られるか、たとえ貢いでいても、奪っていた気がします。借金苦に喘いでも、元夫から奪われたとは思ってない。私が馬鹿だっただけですね。
今の夫とは、最初のうちは大阪と軽井沢の遠距離恋愛でしたが、’19年に入籍。それまでの相手には本音が言えなかったのに、今の夫とは喧嘩もよくしますし、日々大体笑っています。なにしろ親戚だから、私の母をよく知っていて、長年私が抱えてきた母への葛藤を説明なしに理解してくれました。母とのことは、自著『ダブル・ファンタジー』や『放蕩記』で執筆することでセルフカウンセリングをしたつもりですが、母を思い出しても、自分が可哀そうになったり、辛くなることがなくなったのは、彼のおかげです。母には自分で決めたルールがあって、どんな例外も認めてくれない人でした。
子ども同士で遊びに行くとき、お小遣いの前借りが当日の朝まで言い出せず、「貯金してないあなたが悪い」と、待ち合わせ場所まで30分バスで行って断わらせられたり。1つ1つは大したことはなくても、怖くて反抗できない恐怖政治でした。私もそれに従うことが習い性だったんですよね。そんな母が晩年は認知症になり、最愛の父が92歳で亡くなったお葬式で、柩(ひつぎ)にお花を一輪置くとき、母の車椅子を寄せて、「お別れやで」と言うと、「なんで寝たはんの?」と。「よう寝たはるな」と合わせるように言ったら、「こんな気持ちよさそうに寝たはるとこ、起こしたげたら可哀そうやな」と母が言ったんです。
それまで呆けた母を介護するとき、お腹に力をこめないと母の手を握れないくらい生理的な難しさがあったのに、母のほっぺに顔をくっつけ抱きしめて、「ほんまやな。起こさんといてあげよな」と涙を流しながら言えたんです。父を独りで死なせてしまった後悔を、母の言葉に救われた気がしました。母に救われたのは後にも先にもこのときだけ。すべてが浄化されるほどうまくはいかないけど、言葉って不思議なものだと思います。
人生で困難な局面にいるときも、ちゃんと寝て食べます。お腹が空いているときと睡眠不足のときは絶対に悪い方向に考えるから。自分がポジティブでいられる最低限の工夫だと思っています。そして、日々の小さな楽しみを増やし、何をしているときが自分は機嫌がいいのかを知っておくこと。どんな状況にあっても誰かのせいにせず、自分で自分の機嫌を取れる人って美しいと思うんです。
私の場合は、庭いじり、好きな料理を作る、水槽の掃除、インテリア関連のDIYですね。時間ができたらやりたいことリストを携帯電話のメモに残し、所要時間と見比べながら上からこなしていきます。それがポジティブの素です。日々興味が移るので、浮気性なことは認めていますが、それは好奇心の牽引力みたいなもの。自分はどうせ3日坊主だからやらない、のではなく、とりあえずやってみる。行動する力を持ち続けていたいと思います。
最初の夫と千葉県の鴨川に移り住み、40代の初めには農場で馬を飼っていました。42歳で離婚し、45歳で軽井沢へ引っ越し。
4トントラック3台ぶんの荷物とともに引っ越してきた時の写真です。あえて波瀾万丈の道を選んでいるような40代でした。
自分は自分以外の人間にはなれないと腹を括(くく)れば、どんな自分になるべきかが見えてきます。最期は「ありがとう」と言って死にたいとよく言うけれど、私は「あー楽しかった、ごめんなさい」と言い逃げして、この世を去っていけるような自分でいたいです。
2024年『美ST』11月号掲載
撮影/吉澤健太 ヘア・メイク/Sai 取材・文/安田真里 再構成/Bravoworks,Inc.
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2024年12月16日(月)23:59まで
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