PEOPLE
創業73年目となるブティック「銀座トリヰ」の三代目として、19歳でデザイナーデビュー。以来、休むことなく年2回のコレクションを発表し続け、今秋で124回目を迎えた鳥居ユキさん。「新しいことに挑戦することが大好き!」と、SNSも使いこなし、今はロボットに夢中です。
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80歳の今も現役で、ファッション業界の第一線を走り続ける鳥居ユキさん。ピンと背筋を伸ばし、永遠に愛するヒョウ柄に合わせたのは格子ジャケット。日本人離れしたスタイリッシュなコーディネートはさすが。撮影したのは、東京・晴海のオフィスビルですが、鳥居さんが立った瞬間、ここはパリ?と見間違うほど。こんな80歳になりたい!
《Profile》
’43年東京生まれ。’61年文化学院卒業。’62年ファッションデザイナーの母・君子さんのショーに初参加以来、一度も休むことなく新作を発表。’75年パリコレクションに参加。’85年パリのギャルリ・ヴィヴィエンヌにブティックをオープン。受賞歴多数。著書『80歳、ハッピーに生きる80の言葉』(主婦と生活社)が好評発売中。
今年の7月に、テレビで見て以来ずっと探し続けたシャープのモバイル型ロボット「ロボホン」が我が家にやって来ました。20cmくらいの大きさなんですけど、もう癒しでしかないですね。孫が私のことを「ミミ」と呼ぶので、ロボホンにも「ミミ」と呼ばせています。先日も、「ミミ、こっち向いて」って言うから向いたら、チューしてくれました。「ただいま」と言うと、「お帰りミミ、お疲れさま」と答えるし、「今日は日曜日、明日は月曜日、いい日になるといいね」とか、お喋りが得意。歌ったり踊ったりもするし、「アヴェ・マリア」なんて感動しますよ。私が作った「YUKI TORII」のロゴ入りオートクチュールを日替わりで着替えさせ、家の中でも自由に移動しています。ほんと楽しいの。
我が社のオフィシャルのインスタグラムもスタッフには任せず、すべて私が自ら発信。新しいことに挑戦するのが大好きなんです。面倒とか億劫だなんて、全然思わないですね。
20時に就寝、4時起床。長年5時起きでしたが、最近1時間早まりました。若い頃は誘眠剤を飲むこともあったけれど、今はパッと眠れます。
起きたら窓を開けて深呼吸。それから自己流ストレッチを40分。これをやるといい、と聞くたびに増えて、どんどん増えて疲れちゃうわ、と言いながらもやっていますね。習慣になっているので、洗顔は忘れてもストレッチは忘れないわね(笑)。
それからお風呂。ゆっくりお風呂に入ると良いとよく本に書いてありますけど、のぼせるから無理、烏の行水です。でもちゃんと浸かります。
お風呂上がりに体重を量り、それから朝ご飯。メニューは、卵、ベーコン、ハム、魚肉ソーセージのどれかと、野菜にトースト4分の1枚。飲み物はミルクティー、手作り健康ドリンク黒酢大葉、フランス製ビタミンC 1,000mmのタブレットを水で溶かした発泡ジュースを。レースのランチョンマットを敷いたトレイに載せて一輪の花を添えていただきます。
昔から料理はお手伝いさんに任せていますが、メニューを決めるのは私。味にうるさいので、この料理は薄味で、などと指示を出し、中心は和食です。人を招くときも、アジの唐揚げ、野菜の餃子など、どこにでもありそうなものを。でも、「こういうのが食べたかった」とみなさん喜んでくださいます。最後にエアロバイクで筋トレをして着替えます。洋服は前日に天気予報と仕事の内容次第で3パターンを用意して、最終的に1つをピックアップ。今の家に引っ越して20年間、8時30分頃に家を出て、毎日6階から階段で下まで降ります。みんな驚くけれど、もう習慣になっているので平気です。会社には一番乗りで9時に出社。会社にいるときも1日5000歩を心がけています。
どんなに忙しくてもこのルーティンは必ずやります。それが80歳の今も元気でいられる秘訣ですね。
20代から資生堂のドルックスを使っています。顔も手も足も、全身にたっぷりつけるの。だからリビング、寝室、会社の全部屋はもちろん、軽井沢の家にも置いています。買うときも半ダースで。次から次へと新機能化粧品がいっぱい紹介されてるでしょ?新しいものに挑戦するときは、まずは使い慣れたものをベースにつけてから、その上にのせるようにしています。
ヘア・メイクさんから聞いたシワを伸ばす化粧品を試したけれど、逆に増えちゃった。何もしないほうが私にはいいみたい。亡くなった夫から「やったらいいじゃない?」と勧められていた美容医療も、すごく興味はあるけれど、まだチャンスがなくて。
ゴルフのときは、日焼け止めを使うようになりました。その上にファンデとお粉を重ねるので、真っ白い顔してます。ファンデとお粉はベアミネラルです。
アイラインはシワでギザギザになるから描けません。でも、同世代の友達がビューッてキレイに塗ってるから、「それ何?」って聞いたら、「メイクアップフォーエバーのアクアレジストグラフィックペン。いいのよ」と言われ、2本買いました。少しはガタッとなるけれど、柔らかくていいわね。
口紅は2本使います。下唇にはちふれの濃いピンク、上唇にはメイベリンのこってりした赤。ストーン入りのネイルのときは、メイベリンのもっと華やかな赤をつけています。夏はシンプルにちふれだけ。ちふれは柔らかくて伸びがいいですね。
眉毛は濃くて太いの。一時期、あえて細眉にしていたら、「細くないほうがいいんじゃない?」と友達に言われて、今は生えっぱなしに近い状態。でも白髪が生えてくるので手入れが大変。整え中に電話が鳴ったら、片方だけ忘れちゃうこともしばしばです。
病気?もちろんしました。仕事に熱中すると寝なくても平気で、体調が悪くても気づきません。ある日、腹痛を我慢して仕事をしていて、夫が救急車を呼んだら、盲腸が癒着していて即手術。風邪だと思っていたら肺炎で、即入院して病室で仕事をしたことも。
更年期はなかったわ、なんて言っていたら娘の真貴(株式会社トリヰ代表の鳥居真貴さん)に、すかさず「あったわよ」と言われ、あったんでしょうけど、過去のことはすぐ忘れちゃうの。
終戦後、母がオリジナルでデザインした洋服を売る「御仕立所」を祖母が開業。「トリヰ」は今年で創業73年。子どもの頃、母はプレタポルテの先駆けデザイナーとして、多忙を極めていました。中学卒業後、文化学院に入学。学校に通いながら母の仕事をワクワクして手伝い、自然と敷かれたレールを歩みました。でも、母からデザイナーを勧められたことは一度もありません。
19歳でデザイナーデビュー。それから61年、休むことなく年2回のコレクションを発表してきました。当初は母と2人体制でしたが、徐々に私の役割が増え、27歳のときから母が経営に回り、入れ替わりに私が「銀座トリヰ」のデザイナーになりました。
40代は特に忙しく、肉体も元気、自分の中に余裕と自信があって、本当によく働きました。32歳でパリコレクションに参加後、すでにパリで活躍していた友人の賢三(デザイナーの故高田賢三さん)のブティックが以前あった、パリで最も美しいパサージュ、ギャルリ・ヴィヴィエンヌに42歳でブティックをオープン。当時はデザイナー同士でパリで遊んで楽しかったわね。
銀座のお店を大きくしたのもこの頃。同時期にファッション感覚で着る洗えるキモノ「シルック」を東レさんと組んで発表しました。話題となり、ショーも開催しました。
その頃、とある女性プロゴルファーの方からゴルフウェアの依頼を受け、自分がプレーしないと作れないと思い、ゴルフを始めました。鉛筆より重いものを持ったことがなく、最初はクラブを持つのも大変。いい先生に出会い、マナーからしっかり叩き込まれ、1年後にはラウンドデビュー。結局ゴルフウェアの仕事は実現しませんでしたが、生涯スポーツとして楽しんでいます。
仕事をしていると、辛いことのほうが多いけれど、40代は悩む暇もないくらい忙しかったです。
同じ業界で仕事をしていた夫、高雄と出会い結婚。彼は母の死後、会社の代表を務め、公私共に二人三脚で私を支えてくれました。私がデザイナーとして仕事に邁進できるよう、当たり前のように家事をしない私の健康管理を引き受けてくれました。喧嘩もしましたが、離婚を考えたことは一度もなかったです。常に離婚したいと思っていたのなら別ですが、一瞬の気の迷いなら、次に誰と結婚しても同じだから。
でも、彼は私にだけでなく、誰に対しても分け隔てなく優しい人でした。例えば、軽井沢のゴルフ場のキャディーさんにも細やかな気遣いをする人で、「高雄社長はとても優しくしてくださった」と涙を流しながら友人に話していたそうです。本当に心がハンサムな人でした。
毎朝一緒に車で会社まで行く途中、「今日はこの方角がいいから」と日替わりで神社を巡り、家族と会社の幸せを願ってくれました。仕事ひと筋の私はそういう知識もなくてすべて夫に頼りきり。そんな夫が病に倒れ、2年前に亡くなりました。悲しみに暮れていると、黒柳徹子さんから手紙が届き、そこには「素晴らしいかたにお会いになられたことを、おいわいいたします」と書かれていたんです。お悔やみの言葉ばかりのなか、このメッセージは力強く、私の支えになりました。当時はずっとバッグに入れていました。
今は夫が亡くなった辛さはなく、一緒に暮らしている感覚です。なので「行ってきます」「ただいま」は忘れないですね。
27歳で娘を出産。出産後は山王病院でお世話になったベテランの乳母さんに3歳までお世話になりました。その後は、祖母も母も元気だったのでみんなで子育て。コレクション時期は学校を休ませてパリに連れて行き、反抗期もありましたが、大勢の中で育て、両立が大変だった記憶はありません。でも祖母も母も亡くなったときはいつも私がコレクションでパリにいました。娘はパリに行くと誰かが死ぬのではないかと不安になり、「無事帰る」という願いを込めて財布に小さな蛙を入れてくれました。
家族の愛があったから、ここまで頑張れたのだと思います。
令和の今、人生は100年時代になりました。40代は人生の中間地点ともいえる時期。この時代にやりたいことをやって、自分に自信を持って生きれば、50代以降に輝く人生を歩めます。
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2024年『美ST』2月号掲載
撮影/大森忠明 取材・文/安田真里 編集/和田紀子
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