PEOPLE

デヴィ夫人(82歳)「死神はハイヒールで蹴飛ばす気でいますわよ」

前回ご登場いただいた2011年10月号から11年。ウエストがキュッとしまった30年前のドレスを着こなし、足元は10cmのピンヒール。傘寿を超えてなお輝きを増すデヴィ・スカルノ夫人の驚愕の美しさと元気の秘密は「自分に限界を作らず常に挑戦し続けること」でした。

108歳まで生きるのが目標。死神が来てもハイヒールで蹴り飛ばします

「気に入ったジュエリーは、見た瞬間に、『私以外の世界の誰にもつけさせないわ』と思って、いつも即購入します」。今日つけているものは、ブレスレットのサファイア以外は、すべてタンザナイト。芦田淳さんのネイビーのドレスに合わせました。

《Profile》
1940年東京生まれ。’59年にインドネシアのスカルノ大統領と結婚。政変により、’70年に娘を連れてパリに亡命。社交界で「東洋の真珠」と呼ばれる。夫と死別後は、パリ、インドネシアで事業に専念。’91年にニューヨークに移住。60歳を機に日本に拠点を移し、テレビ出演のかたわら講演会や慈善活動を行う。Instagram @dewisukarno

美と健康のために悪いこと、全部しています。まず大酒飲み。昨夜もね、お食事会でシャンパンを何本空けたことかしら。夜中に帰宅して、宝石を外して顔を洗って寝たのは2時。今朝は7時に目が覚めていましたから、5時間しか寝ていません。毎日毎夜何十年もずっと睡眠不足です。問題も背負いきれないほど抱えています。それでも82歳の今も元気でいるのは、精神の持ち方以外ないと思うの。

私は美しいものが好き。音楽会、宝石、美しい景色、絵画……。お友達も綺麗な方ばかり。美にたくさん触れる生活をしています。毎日10回は感動していますわ。感動することは、何も難しいことではありません。テーブルの上に飾ったお花が綺麗、でもいいんです。周囲を見回し、ステキなアートや窓から見える木々や植物……感動するものはいっぱいあります。

多くの方は、毎日を生活していると思うけれど、私は毎日を生きている。その違いって、あなたわかるかしら?

エステは7年前に1回。化粧品はプチプラでもいい

美容も特別なことは何もしていないと断言できます。いちばん大事にしていることはダブル洗顔。洗顔クリームでメークを落としても、まだ汚れが残っているので、もう一度洗います。化粧品も、私がいいと思えばプチプラだって使います。絶対的に保湿を心がけていて、それで今、いつも使用している栄養クリームがさらにお肌に浸透するよう、それを促す役目を果たす美容液を作っております。エステは時間がなくて全然行ってないですね。7年前に1度行ったきり。お風呂は、時間がないのでシャワーだけのカラスの行水です。

おかげさまで大きな病気はしたことがなく、頭痛も肩凝りも感じたことがありません。でも腰痛と五十肩は経験して、お相撲さんから紹介された埼玉の「かずなRC治療院」に週1で通いました。骨と骨の間の神経のつながりを見て肩の骨の矯正をし、カチカチに固まっていた肩と腕まわりを柔らかくしてもらったら、1カ月で痛かったところが噓のように治りました。

パリにいた30代の頃、夜中に汗びっしょりになることが続き、とんでもない病気ではないかと心配したのですが、検査をしても悪いところはまったくなく、ずいぶん後になってから、それが更年期だったことを知りました。更年期障害はそれだけでしたね。

食生活も脂ものを避けているくらい。特に日本の霜降りのお肉は絶対に嫌です。みなさん口の中でとろけるようとおっしゃるけれど、脂を食べているようなものですから、とろけて当然。見ただけで肝臓が悪くなるような気がして絶対に拒否。私の冷蔵庫には、海苔、納豆、豆腐、ごま、豆乳、野菜を常備。なるべく「まごわやさしい」を心がけています。朝はお腹が空かないので、脳への糖分補給にとフルーツだけいただきます。果物は胃の中で発酵しますから、食後に食べると、ほかのものに影響するので単体で食べるようにしています。

運動する時間はありませんが、スポーツが大好き。夏はスキューバダイビング、冬はスキーを楽しみます。今冬も2度ほどスキーに行きました。インドア派に思われがちですが、子どもの頃からお転婆で、いつも手足も顔も傷だらけ。今も曲芸をすぐにこなしてしまうので、バラエティ番組でいろんな挑戦をしてきました。スカイダイビング、バンジージャンプ、空中ブランコ……。イルカに乗ってサーフィンをと言われたときは、「そんなのありえない」って思いましたけれど、インストラクターの方が女性で彼女は人間、私も人間。彼女ができるなら私もできるはずだと思って挑戦し、イルカと一緒に大ジャンプしました。私のモットーは何にでも挑戦すること。挑む気持ちがなくなったとき、自分は年を取ったのだと思うのが嫌。今でも10cmのハイヒールを履いて、ボディラインの出る洋服を着られるのは、確固たる信念があるからだと思っています。

常に人生に目標があれば、チャンスを逃さずつかめます

19歳でインドネシアに渡り、大統領夫人になりましたが、その後の政変の最中に妊娠したことを知り、身の安全を考えて日本に戻って長女カリナを出産しました。乳母と3人でフランスに亡命していたときに大統領が亡くなり、娘と生きていくためにパリでビジネスを展開。私の40代は、一生懸命働いた時期でした。多くの方は、大統領の遺産で贅沢ができていると思っているようですが、死に物狂いで働いて、自力で成功したんです。

16歳のときに亡くなった父は大工の棟梁でした。スカルノ大統領も国造りの真っ最中で、ジャカルタ市外の道路の拡張や石油精製所や病院建設を進めていて、私は夫のベストアシスタントとして、それらの事業に関わってきました。建築業はまさに私の生業。30歳からパリで事業を興し、40歳でインドネシアに戻ってフランスの建築会社フジェロルや石油技術会社テクニップなど5つの会社のエージェントとして国債入札をし、石油ガスのプラントなどを建設。このとき、インドネシアで習っていたフランス語が大いに役立ち、専門的なことは一から人に聞いたり、本を読んで猛勉強しました。

そもそもテレビが普及していなかった子どもの頃の唯一の楽しみは読書。スタンダールの『赤と黒』では主人公のレナール夫人、トルストイの『戦争と平和』では無邪気な少女ナターシャになりきっていました。そうやって私自身がヨーロッパ文学によって人間形成をし、貴族社会に憧れ、10代の頃から歴史上かつてない存在として名を残したいと思っていました。だから、スカルノ大統領と出会ったときは、今だ! と直感。シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』に、「マリーの犯した唯一の罪は、女王として幸せになるより、女性として幸せになろうとしたことだ」と書いてあり、それが大統領夫人として生きる私のバイブルになったのです。

私がラッキーだったのは、子どもの頃の貧しさと戦争体験です。その経験が反骨精神となり、常に目標を持ち、それに向かって努力をし、どんなチャンスも見逃さずにつかめたのです。

みなさんを見ていると、今のコロナじゃないけれど、慣れとたるみがあるのでは?例えば夫婦関係でいちばん大切なのは新鮮さ。結婚して何十年経っても、絶対に自分をさらけ出してはダメです。夫を永久にライバルだと思って接し、自分のいいところを小出しにしてご覧なさい。慣れ合って古女房臭くなったら男は浮気しますよ。もし夫の浮気を知っても、夫を絶対に失いたくないと思うほど愛しているなら、知らないふりをしなさい。許したら最後、男はそれが免疫になっちゃう。夫が開き直ったらおしまいです。妻も頭を使わなくては。自分もより綺麗にして、お芝居でもいいから、「あの男性ステキねー」とほかの男性を褒め、夫に嫉妬させなさい。すると絶対にあなたのところに戻ってきます。

私はね、スカルノ大統領から女冥利に尽きるくらい、1分1秒ごとに「愛している」と囁かれ、愛されていたので、まさか浮気をされているなんてまったく知らなかったんです(笑)。それが良かったのだと思っています。

私にとって何より大切なものは家族です

波瀾万丈な人生を歩んできましたが、今でも悔やまれるほど悲しかったのは、インドネシアに渡った2年後に母が亡くなり、その2日後に弟がガス自殺をし、最愛の人を同時に失くしたこと。弟の亡骸を見たときは「神様!」ではなく、「悪魔!」と叫びました。反対に至上の喜びは、妊娠がわかったとき。結婚して7年間も子どもに恵まれず、母となる喜びを知ることはできないと思っていたので、このときばかりは神様に感謝しました。私にとって何より大切なものは家族です。

パリに亡命中の30歳のとき、大統領が危篤との知らせを受けて帰国しようとしたとき、友人から「殺されに行くようなものよ」と大反対されました。でも、人生はゼロから始まり、またゼロになるのは全然怖くない。殺されても夫に会いたい、殺されるならどんな死に方をしたかを報じてもらいたいという覚悟でパリを発ちました。

シンガポールでの乗り換えのとき、インドネシア大使館員が私と娘に近づき、「あなたには許可が下りないのでジャカルタに入れません」と言われ、「自国に入るのにどうして許可がいるのですか?」と前に進むと、「あなたの命の保証はありません」と。銃殺を覚悟して飛行機に乗りました。隣に朝日新聞の記者が座っていて、夫はまだ生きているのに、死亡記事の予定稿を書いているのを見たとき、「神様、どうか私が銃弾に倒れたら、1秒だけでもいい。私の手で娘を殺める力をください」と祈りました。娘が敵の手に落ちることが考えられなかったんです。

ジャカルタに到着後、夫が入院している陸軍病院に行くと、3年ぶりに会った夫は懸命に死と闘っていました。私は悲鳴を上げて泣き崩れましたが、そばで看病することも許されず、郊外の別荘に連れて行かれ、翌朝夫が亡くなったことを知りました。私も娘も殺されなかったのは国民の力だったと思います。

何があってもこの子を守っていくと強い決意をしたからこそ、その後のビジネスを頑張れたのだと思います。その娘とは、一時期、私を悲しませるために生まれてきたの?と思うほど、何年も会わない時期がありましたが、娘も結婚し、子どもが生まれてからはわだかまりが解け、今は仲良くやっています。つい先日も孫と来日して、一緒にバカンスを過ごしました。

逆境になればなるほど自分を奮い立たせてきました

これまで壁に突き当たって何度も絶体絶命と思うことがありましたが、ここで死んでなるものか、絶対勝ってやり遂げると、アイデアを一生懸命絞り出しました。そうすると方法が出てくるものなんです。私は逆境になればなるほど、自分を奮い立たせます。人の3倍勉強して、人の3倍働いて、人の3倍努力して、人の3分の1の睡眠で生きてきました。人生は毎日が戦場で、私はその一戦士。毎日が闘いだと思っています。だから毎日を暮らすのでなく毎日を生きているのです。

日本に帰国して今年で22年。私をタレントだと思っている人が多いようですが、テレビでの仕事は私の全仕事の10%にも満たないんです。私がいちばん力を入れているのが社会活動。’05年にNPO法人アース エイド ソサエティを立ち上げ、動物愛護活動、世界中の難民支援、国内外の被災地慰問をさせていただき、NPO米国財団法人「イブラ国際音楽財団」では音楽家育成に尽力しています。年6回のチャリティも開催し、本当に時間が足りないくらいの忙しさなんです。

100歳まで生きれば嬉しいと思って、105歳まで生きると言ったら、あるお坊さんに「人間の煩悩の数、108歳まで生きてください」と言われました。今はそれを目標にしています。死神が来たら、ハイヒールで蹴飛ばす気持ちでいますわよ。

それではみなさま、ごきげんよう。

デヴィ夫人から40代に伝えたいメッセージ

目標、目的を持っていれば、たとえできそうもないことでも、強い意志を持ち、その気になってやり通せば、必ず成就するんです。それが美しく生きる秘訣です。ぜひ目標を持ってください。

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2022年『美ST』10月号掲載
撮影/野村誠一 ヘア・メーク/金本良英 取材・文/安田真里 編集/和田紀子

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